4月 062011
 

日本大地震取材記(3)
京郷新聞 キム・ギボム記者ブログより 2011年3月22日

釜石市内の取材が終わった後、津波に襲われなかった釜石市甲子中学校待避所を尋ねました。300人ぐらいの人々が退避していましたが、暖房がちゃんと機能していなかったためか、建物の中でも冷気のせいで襟を正していなければなりませんでした。教室などの空間ごとに何十名もの住民たちが布団をすっぽりかぶって寒さに耐えていました。よりによって厳寒である上に大雪まで降って、避難して来た住民たちの心がもっと冷めてしまわないか心配になりました。韓国に帰ってきた後、日本の言論を見ると、避難所ごとに医薬品と燃料が足りず、苦しみを味わっている避難民が多いようでした。燃料不足で食べ物を暖めて食べることが出来ないという内容を記事を書きながら、心が痛みました。

校舎内に入ると、この学校に避難している方の名前と年齢などがぎっしり書かれており、また誰かを探しているという内容の切ないメモも貼られていました。一家族に見える3人が名簿を見て誰かを探していましたが、なかなか話かけることができませんでした。

この中学校の運動場は災害現場の支援に来た陸上自衛隊がたてたテントでいっぱいでした。災害現場においては、陸上自衛隊の兵力と重装備が受け持った任務以上に力を発揮しました。災害現場で自分の家を片付けたり、一緒に商店街を片付けた住民たちが陸上自衛隊や災害現場に来た労働者たちにありがとう、ご苦労様と話かける姿が何度も見られました。先の取材記にも書いたとおり、絶望的な被害を受けた状態でも釜石市の住民たちは諦めることなく、生活を続けていました。一緒にごみを片付けて、お互い励ましあいながら、日常的な生活を取り戻すために頑張っていました。

関連内容は日本にいる時に書いた記事でも見ることが出来ます。
‘同病相憐れむ’惜しみなく与える隣人 http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201103172144125&code=970203

タクシーに乗ってまた花巻市に戻り、駅のすぐ前にある小さなホテルに荷を降ろしたのが午後3時ごろ、インターネットが繋がらなくてホテルのスタッフと一緒にしばらく苦労した後、解決した時にはもう4時になっていました。昼ごはんを食べていなかったので、簡単に食べるものを買うため、花巻駅にあるコンビニに行きました。

しかし小都市なので、すでに食堂やコンビニが閉まっていました。この日の朝、盛岡市のコンビニで買っておいた小さなパン1個が無かったら記事の締め切りまでには何も食べられなかったはずです。記事を入稿して荷を整理したら6時が過ぎていました。とりあえず、外に出かけて、何か食べようと探しましたが、店が開いているのは小さな居酒屋1件だけでした。仕方なくそこに入って生ビールとカンパチの刺身を食べました。ちゃんこ鍋というなべにいろいろな材料を入れて食べる料理が食べたかったのですが、一人で食べるには少し量が多かったので我慢しました。物資が足りない日本でこんな量が多い料理を頼むのが申し訳なかったです。元々ちゃんこ鍋は相撲とりの人たちがたくさんの材料を入れて食べる料理だと聞いていたからです。とりあえず、この日はお腹を空かしたまま、ホテルで眠りにつきました。お腹が空いていると、疲れていても次の日は朝早く目覚めるんですね。

大雪が降った後の17日の花巻市の風景です。

次の話は取材記(4)でお伝えします!

翻訳:コリチーム イェ・ウンジ