4月 072011
 

東亜日報 2011年3月21日

■ 朝日新聞 清水記者 本紙記者と同行取材6泊7日 

 平和だった日常のすべてを打ち壊し、飲み込んでしまった巨大地震と津波、そして原子力発電所の爆発事故。被災状況と被災者の苦痛を伝えるべく、ソウルから特派された東亜日報の記者3名とともに12日現地へ向かった。
「ここは市街地からどれくらい離れていますか?」 津波による被害を取材するため岩手県陸前高田市へ向かう途中、交通整理をしていた警察官に聞いた。「5キロほどです」 倒れた電信柱が家を押し潰し、壊れた柱や粉々になった屋根瓦があたりに散らばっていた。
 海に面した市街地にたどり着き、避難所となった中学校の体育館を訪ねた。毛布をかぶって座り込んでいた女性(46)は、「子供たちといっしょにやっと飛び出したが、夫は壊れた家に閉じ込められているかもしれない」と、呆然とため息をつく。「探しに行かないのか」と尋ねると、「怖くて家まで行けない」と言った。
 私にパク・ヒョンジュン記者が聞いてきた。「どうしてあの人は夫を探しに行かないのだろうか。私なら必ず行くのだが……。清水さんはどう思いますか」
「助けたいでしょう。どんな手段を使ってでも、行きたいのは当然です。しかし、彼女は絶望のあまり、明日のことさえ考えられないんです。“悲しい”というひと言をしぼり出す気力さえ奪われてしまった」
 取材中には困り果てたことも少なくなかった。12日、現地に到着した時、福島市内には営業中の宿泊施設はなかった。どうにか市役所に設けられた臨時避難所に寝場所を確保。コンビニを探して尋ね歩いたが、棚はすべてがら空きだった。
 しかし、心温まることもあった。仙台市内を取材している時だった。スーパーや食堂はみな閉店している中で、開けているパン屋を見つけた。入ってみるとパンやケーキ、ゆで卵などを無料で分けてくれていた。無料でラーメンを作ってくれる店もあり、押し潰された店の片隅で、残っているトイレットペーパーや食材など、無料で提供している店もあった。避難所では自分の分も足りない食料を快く分けてくれることもあった。
 うれしかったことは、こうした状況を東亜日報の記者3名が取材してくれたということだ。ファン・テフン記者は無料でケーキを分けてくれた洋菓子店をくわしく報道した。ウォン・デヨン記者は被災地の実情をカメラに収め、韓国から派遣された救助隊の活躍を伝えた。パク記者は避難所で4日ぶりに再会した家族の喜びを取材した。
 こうした報道を通して、絶望的な状況の中でも必死に生きようとする被災者や彼らを支援する日本人の姿が、韓国の国民に伝えられたと思う。
 17日の夜、我々4人はそれまでの取材を振り返った。ファン記者は仙台でケーキを無料で分けてくれた店を取材した時の話を聞かせてくれた。「3年後にもう一度ここを訪ねてほしい。その時はきっと復興した姿をみせることができるから」 店の主人でもあるおばさんが、そう語りながら笑みを浮かべた顔を、ファン記者は忘れることができないと語った。
 我々4人は、必ずもう一度取材に来ようと約束した。それは3年後なのか、それともさらに遠い将来なのかは不明だが、今回訪ねた現場を再度訪れ、取材した人たちと再会しようと語り合った。「その時は被害を受けた人々の希望に満ちた笑顔を伝えることができれば」と願いながら、被災地を後にした。

朝日新聞 清水大輔記者

翻訳:コリチーム 東京人