5月 242013
 

5.18は勝利した運動の歴史

5.18史跡第1号を説明する羅教授

5.18光州抗争の意義についての問題意識を要約するならば、“敗北した運動の歴史”ではなく、“勝利した運動の歴史を作ろう”ということだ。なぜなら、韓国においては、1946年の大邱(テグ)10月抗争、1948年の済州4.3抗争、そして1979年、釜山・馬山で起きた釜馬抗争など、これらはすべて悲劇的な敗北に終わった抗争だった。アジアの他の国に目を向けても、1986年のフィリピンの人民抗争(ピープル・パワー革命)、1988年のビルマ民主化抗争、1989年の北京・天安門事件、1992年にはタイ・バンコクの5月抗争などがあったが、これらも同じように民主主義、民主化のために大きな被害、犠牲を残して悲劇的に敗北したものだった。

他方、この光州5.18抗争だけは悲劇的な敗北をしつつも、再び勝利をした抗争と考えており、その過程は、最初が1980年5月18日から27日までの光州における抗争、そして次は1980年5月28日から1997年4月までの二段階から成る。第一段階では、1980年5月18日からの10日の間に市民の力で戒厳軍を退けたりもしたが、同月27日、道庁前で多くの人々が死んで再度占領され敗北した。しかし、次の第二段階の抗争は、光州ではなく、ソウルや他の地域で始まった。

全南大学5.18資料室にて


光州から全国に波及した抵抗運動

光州抗争に参加してソウルに上京した大学生が、5月29日、ソウル鐘路のキリスト教会館6階から光州抗争の犠牲者を哀悼する遺書を残して飛び降り自殺をした。これに対し、ソウルの聖職者やジャーナリスト、知識人、活動家、政治家たちの団体が声明を発表した。6月9日には、ギム・ジョンテという一労働者が、ソウルの新村にある梨花女子大の前で光州抗争を哀悼して焼身自殺を図った。こうして、1980年6月から1997年4月までの17年の間、全国民的な抵抗運動が行われた。

その過程を私は昨年11月に『韓国の5月運動』という本にまとめてハンウ出版社から出した。17年に及ぶ抗争の歴史を書いたのだが、本が厚すぎるのでもっと一般の人が読みやすいものを簡潔にもう一度書いてほしいと言われ、数日前の5月15日に学術的な分析や理論ではなく、物語からなる『光州抗争復活の歴史づくり』という本を新たに出版した。

1980年6月に始まった17年にも及ぶ抗争の第二段階の過程も大変熾烈なものだった。中には自決した人、焼身/投身自殺をした青年・学生だけでも25人おり、17年の間に1年に1人以上が自らの死をもって抵抗した。警察や情報院が封鎖・監視するので1981年以降しばらくは望月洞(マンウォルドン)の墓地にはいくことができなかった。しかし、毎年5月になると、1980年の5.18抗争を追悼する動き光州だけではなく、ソウルをはじめ全国各地で起こり、それには青年・学生だけでなく、労働者や農民、知識人たちも参加した。

5.18抗争の逆転勝利とその影響

全斗煥(チョン・ドゥファン)政権が退き、1988年に盧泰愚(ノ・テウ)政権になると、光州5.18の動きを民主化運動と表記することが許可され、1981年には望月洞墓地に100~200人しか集まらなかったのが、1988年の5月18日には2万人が集まった。望月洞の狭いスペースで追悼式・追悼行事をし、午後に道庁前に到着したときは、錦南路(クンナムノ)には、10万人以上の人がいた。この1988年5月のイベント以降、1991年5月のイベントまで望月洞には1万人以上が集まり、錦南路には10万人以上が集まった。

そうした力を土台にして、国民運動の力によって1995年には特別法が制定され、それにより、全斗煥、盧泰愚二人の大統領を含む、新軍部虐殺蛮行責任者が法廷で裁かれ、有罪判決が下された。全斗煥が1審で死刑判決を受けた。この裁判の後に5月18日は国の記念日となり、望月洞墓地が国立墓地になったのが1997年のことで、1980年5月27日には負けて死んだ抗争が、17年後の1997年に復活して勝利した抗争になった。したがって、光州の5.18抗争は勝利した抗争の歴史を作った。人類の歴史でよく経験する民主主義と正義のための抗争においては敗北を繰り返してきたが、光州の経験はそうした人類の歴史を逆説的に変えて“勝利した抗争の歴史”を作ったという意味付けを与えることになった。我々人類の民主主義と正義のための運動が勝利することを希望してそのように抗争の歴史を語ることを強調したい。

17年間、我々がどのような抗争の歴史を作ってきたかを、香港、バンコク、プノンペン、スリランカを訪問した際に民主化運動にかかわる人々とたくさん話をしたが、彼らは皆光州抗争の歴史に深い感銘を受けていた。なぜなら、彼らは光州抗争の歴史が民主化の発展、民主主義の発展の教科書だと言うのだ。毎年5月になると光州では、学術、芸術、追悼祭を含め約60ものイベントが行われ、ソウル、釜山、大邱、仁川のような都市でも5.18の記念行事が行われる。そしてドイツのベルリン、フランクフルト、ボーフム、米国のワシントン、ロサンジェルスでも実施されるこの5月の記念行事は、1981年には100人程度の市民が抑圧された中で秘密裏に集まったことに端を発し、1988年には追悼式の規模が飛躍的に大きくなり、今日まで続いている。光州の5.18抗争ほどこのように大規模で広範囲に行われている記念行事は、全世界的にも珍しいといえる。

5.18民衆絵画(光州市立美術館所蔵)


5.18抗争の5つの意義

結論として5.18抗争の意義についてまとめるなら、第一に、勝利した運動の歴史を確立したということが重要である。二番目には、光州5.18抗争は、よく言われるように、軍事独裁を終わらせたということ。軍事独裁が示すことができる最も野蛮な犯罪行為をしたため、それ以上の軍事独裁が起こりにくくなったといえる。三番目には、光州市が警察や軍人から完全に解放された自治共同体になったこと。歴史的に国家公権力が及ばない、非常に自然な社会本来の姿、国が消滅した状態、そのような状況で、国家権力がなくなっても非常にレベルの高い道徳共同体を成し得るという希望、可能性を見たのだ。

5.18抗争の意義として四番目に挙げられることは、5.18抗争5月運動を通して、1990年から補償を受けることができるようになったこと。補償を受け、国の記念日となって国家が謝罪をし、いわゆる韓国社会の誤った過去を清算するきっかけを作った。これにより、済州4.3被害者が補償を受けることができるようになり、6.25時の老斤里(ノグンリ)虐殺の犠牲者や、居昌(コチャン)良民虐殺の犠牲者たち、その他多くの地域の政府軍によって虐殺された人々が補償を受けたり名誉を回復することができるようになった。

そして最後に、第五の意義を加えるとするなら、5.18抗争が特に17年の5.18抗争が起こるプロセスでは文学、詩や小説、「あなたのための行進曲」を含む音楽、絵が幅70mくらいの作品や壁画サイズが10mを超える作品や版画などの美術、演劇、漫画など、様々な、いわゆる“運動芸術”のようなものがアップグレードされたといえる。

お話: 羅看采(ナ・ガンチェ)全南大学社会学科教授/光州研究所理事長
(5月17日昼食会にて)