8月 212014
 

ラオスの話(5) 現場の言い分

私たちはいつも「現場」の話をする。
現場ってなんだろうか?
何を現場と呼ぶのだろうか?

私たちはよく「現場」に行くという。
どこへ行くことを言うのだろうか?
どうしてそこへ行くのだろうか?

私たちは「現場」が重要だと言う。
どうして重要なのだろうか?
何があるから重要なのだろうか?

現場ってなんだろう?

私は現場にいる。国語辞典で「現場」を調べると 1)事物が現在あるところ 2)仕事が生じたその場所 3)実際に仕事や作業が行われている場所 となっている。つまり私の立場だと韓国から見たラオスが現場であり、ラオスでは、首都のヴィエンチャンよりここワンウィエン郡が現場になる。もちろんアフリカにもカンボジアにも現場がある。ソウルの道峰(ドボン)区も済州(チェジュ)島も沃川(オクチョン)も密陽(ミリャン)も現場だ。毎日夜勤している我々の事務所こそ生活の現場だ、と言う人もいるだろう ^^

現場が重要なのは、まさにそこで変化が生まれているからだ。現場に足繁く通うのは、現場に学ぶものがあり、問題の答えを見つけ出せるからである。理論と実践に分ければ実践のあるところだ。いや、現場がなければ理論も存在しないわけだ。

自分が現場にいると実感させられる、ささやかな事例があった。プディンデン青少年センターは、ワンウィエン郡のいくつかの村の青少年活動を支援している。そのため、センター職員が村を訪問する機会が多い。ある日、プディンデンセンターに支援を求めてきた二つの村の事前調査を行うことになった。手ぶらもなんなので、村の役に立つものを買っていこうということになり、何を買うか話し合った。ラオスの若者はサッカーが好きだからサッカーボールを買おう、ということで職員全員の意見が一致した。

ところが、そのときトゥニーがこう言った。「バドミントンの道具も一緒に買ったほうがいいと思うんです。だって、サッカーは男の子ばかりで女の子にはできないのに、サッカーボールだけしか買わないっていうのは不公平じゃないですか」。瞬間、私は頭をガツンと何かで殴られたような気分になった。地域で活動しながら、私は、どうしたら女性が差別を受けずに暮らすことができるかを常に考えてきた。近隣のウィアンサマイ村で、文字の読めない女性を対象とした識字教室を始める準備もしていた。だがアイデアはあっても、いざとなるとあれこれ問題が生じ、全く順調には進んでいなかった。そんなとき、当時センター職員で唯一の女性だったトゥニーが、男性たちが目にすることも感じ取ることもできなかった部分をきちんと捉えていたのだ。「そうだ。性の平等というテーマのどこが特別な話だろうか? 事業を大々的にやって制度を作るのも大切だろうが、サッカーボールだけでなくバトミントンの道具も買うということこそ性の不平等を解決する一歩のはず。また一つ教えられた。だから現場は重要なんだ」。改めて思わされた瞬間だった。

ソウル市支援ボランティアセンター ラオス研修団の「専門家」についての定義

現場で重要なことは?

現場では変化がじかに生まれている。問題とより深く向き合う。利害関係者は多いし、考えなければならないことも山のようにある。机に向かっていてはわからない、現場だからこそ生じる仕事も多い。それだけに難しく、悩ましい。そうした骨の折れる現場で仕事をするために必要なものはなんだろうか? 情熱、使命、信頼、信念、愛、奉仕、若さ、経験、月給、経歴、スペック、ブッ飛んだ発想、無分別、展望、新しい未来、知識、事例、専門性などなど……。人によって現場によって少しずつ違うだろう。現場で必要とされるさまざまなことの中から、今日は専門性について少し話してみよう。

人々はよく、現場できちんとした仕事をするためには「専門性」が必要だ、という。ある程度は当たっている。専門性を持った人を専門家と呼ぶが、国語辞典では専門家は「ある分野を研究したり、仕事に従事して、その分野に相当の知識や経験を有する人」と定義されている。言いかえると、現場では「相当の知識や経験」がなければ、きちんとした仕事ができないことになる。

だが、わずか20年あまりという韓国の国際開発協力の歴史の短さもあり、関連する専門家はまだそれほど多くはない。知識と経験の両方を併せ持つ人を探すのは至難の業だ。現場に出ようという専門家はさらに少ない。そんなわけで、現場には若者が多い。知識と経験を基準にすれば専門性があるとは言い難い若者たちが、どうしてそんなにたくさん送り込まれるのだろう?また、若者たちが現場に出ると、専門家のサブの仕事や勉強の機会を与えられるのではなく、いきなり難しい仕事を任される場合が多い。経験を積む時間もチャンスもないのだ。特に政府やさまざまな機関が、青年インターン制度などによって若者の海外派遣支援事業をたくさん行うようになってから、若者に適した対応をとるのではなく、低賃金の労働力として送りこんだりもしている。

こうした事情から、現場にいる人々は自らを未熟と考え、よく専門性についての悩みを打ち明ける。韓国でよくいわれる「鞄のヒモは長くなくては(訳注:勉強するほど学力が上がる、という意味)」という強迫観念もある。ではどうしたらいいだろう? 経験も知識も一朝一夕に得られるものではないから、経験が足りないことを嘆いてばかりいても仕方がない。現場の活動家が自信を高め、専門性を育める方法はないのだろうか?

息せき切って駆けずり回らなければならない現場では、そんな時間は与えられない。限りなく複雑な現場関係者たちによって心の余裕は失われる。たまに現場の状況を尊重しない人もいる。理論や知識が、本部が、地位の高い人が、金を出す人が優先される韓国社会の風土が、ここでもそのまま当てはめられる。結局、現場で専門性を育てることは難しく、専門性を発揮することはさらに難しいのだ。厳しい現実を少しのぞいてみよう。そして、現場の切実な声に耳を傾けてみよう。

現場に必要な専門性って?

プディンデン青少年センターにあるカフェを宣伝するために、センターの前に看板を立てることになった。韓国からやって来た支援活動家のミナは職員たちと話し合い、とても素敵な看板をデザインした。あとはデザインの通りに作ればいい、と作業に取り組んでいたミナだったが、そのうち溜息をつき始めた。ラオスでは、デザイン通りに作ることが難しかったからだ。韓国のような国であれば、アクリル、鉄板、木材など、必要な材料は何でも買い求めることができるし、技術も経験も豊富なので、いくらでも思った通りにサクサク作ることができる。だが、ここラオスでは何もない。ミナはまだ、そのことに考えが及んでいなかった。

さまざまな状況を考えた末に、看板はセメントで作ることになった。それだって、村に仕事のできる人がいたから可能になったことだった。ところがいざ工事が始まってみると、再びいくつかの問題が持ちあがり、人々が口々に言った。「字が浮き上がってこない」「看板全体の形がおかしい」「上が重すぎるから、下手したら倒れるぞ」。努力を重ねた結果、形は少しずつ変わり、補強され、とうとう素敵な看板が完成したのだった。

現場の作業はいつでも難しい。机上のプラン通りに進むことは殆どない。特に韓国で立案、設計されると、多くの場合に問題が発生する。だからこそ現場の専門性が必要なのだ。韓国でだけ仕事ができる人は専門家ではない。韓国とは状況も条件も全く違うラオスでも仕事をこなせる人が本当の専門家ではないだろうか?ところが、ラオスまで来ても現地の事情を考慮せず、韓国での経験ばかりにこだわる人がいる。韓国の技術がそのまま通用するはずなのにどうしてダメなんだ、と責めたてたりする。あげくに一言、こう言うのだ。
「だからラオスはダメなんだ!」

開発協力事業が増加し、多くの専門家が必要とされている。だが需要に対する専門家の数は依然として多くないため、わずか数名の人々がひどく忙しい思いをしている。デスクワークも多く、現場に出なければならない仕事も増えている。出張のための資料や文書はすでに山積みだが、肝心の時間がないので、事前に読み込んで準備することができない。だから、出張に向かう飛行機の中で初めて資料を広げることが多い。こんな状況で、どうしたら現場への想像力を養うことができるだろうか?

青少年センターの看板作り

専門性だけでは不十分な現場

ラオスにも、いわゆる専門家と呼ばれる人々が多くやってくる。事業開始のために、中間点検に、最終確認に、評価のために、専門家たちはやって来て各種の調査を行う。そうした調査を元にして途方もなくたくさんの報告書がばらまかれる。内容はどうだろう? 私見を言えば、ラオスについての報告書は非常に形式的だったり、事実と異なる場合が多い。特に、相手が公務員であれ住民であれ、人と会ってのインタビューをもとに評価したものほど不正確だ。なぜなら、ラオスの人々の特徴を全く反映できていないからである。

ラオスの人々は「イヤだ」「悪い」という表現を使わない。だから私は「悪い」という意味のラオス語を知らない。暮らしていても殆ど聞いたことがない。ラオスの人々は「悪い」または「間違っている」という表現より「ボディ-良くない」「ボトゥク-合っていない」を使う。他人に、「イヤだ」「悪い」という話を殆どしないのである。そんなわけで、仮にその事業が気らなくても、調査に来た専門家から「いかがですか?」と問われれば「いいです」と答えるし、事業終了後の評価で来た人の「事業はうまくいきましたか?」の質問には、「うまくいきました」と答えるのである。

ラオスの人々は、心のうちを簡単には口にしない。一杯やって初めて、それもほんの「少し」だけ本音を見せる。それなのに数時間来て質問用紙片手に質問されても、誰が「本当」の思いや意見を打ち明けるだろう? そんな状況下での調査内容に基づいて報告書が書かれるのだから、事業評価は高くならないわけがない。ODAウォッチでも2010年、韓国がラオスで行ったODA事業の評価のため、短時間のうちに現場で多くの人に会って「本当」の話を聞こうとしたことがある。結局、それでは不十分なことがわかり、予定になかった第二次現場評価を実施したが、今でもそのことを思い出すと全く恥ずかしい。

現場の話を聞かない人々

現場は自分の話をするより、人の話を聞くところだ。私は韓国にいたとき、かなり喋る生活だったが、今ではずいぶんと話さなくなった。できるだけ人の話をたくさん聞こうとしていることもあるし、言葉がうまく通じないからでもある。今はある程度ラオス語ができるようになり聾状態を脱したが、それでも、みんなが難しい話をしていたり、ひどい早口の時には話に加わることができない。もどかしい気持ちになる一方で、私はむしろこういう時間を悪くないと思っている。ぼんやりと様子を眺めつつ、その瞬間を楽しんでいればいいし、たくさんのことを聞いて考えることができるからだ。通訳がいる場合も、通訳されている合間に考えることができるので余裕が生まれてとてもいい。ところが、ある種の人々は現場にきても、この「間」や「余裕」を楽しむことができない。

韓国で医師と市民社会活動を行っている人々が、一緒にプディンデンに来たことがあった。ラオスで行う医療保健事業の調査のため、ある地域の保健所を訪問した。このチームはラオスでの滞在期間が短いだけでなく、風光明媚なワンウィエンにも立ち寄る日程だったため、保健所での調査は非常に短時間だった。その短い時間に、彼らは自分たちの確認事項ばかりを矢継ぎ早に質問すると、ラオスの人々の話を聞く暇はないとばかりそのまま出発しようとした。だが、保健所職員たちは何か話したそうな雰囲気だった。「あの…、あの…」。話し出そうとしたのだが、訪問者が出発を急いだため、結局話はできなかった。遠方からの外国人の訪問に感謝を惜しまないラオスの人々は、こうして来ていただいてありがとうございます、と丁寧な挨拶をして見送った。どうして人々は現場にきても話を聞かないのだろうか? 聞かないのなら机の上で仕事をするのと同じなのに、どうして現場まで来るのだろうか?来たら来たで、もっぱら自分たちの話ばかり、時には教え諭そうとする。私は保健所職員に合わせる顔がなく、本当に申し訳ない思いだった。

現場では住民に密着

現場を急かす人々

プディンデンでは、地域の村の青少年を育成するための支援、つまり金や人が求められている。昨年、忠南大学校師範大学と韓国国際協力団(以下KOICA)が支援する大学協力事業を一緒に行った。事業を行うにはヴィエンチャン県庁の承認を受けなければならないが、これがなかなかうまくいかない。そこでKOICAラオス事務所に支援要請すると、ありがたいことにKOICAはラオス政府に公文を送って積極的に動き、現場に事務所職員を派遣してきた。

ところが、あっけにとられる出来事が起きた。事務所職員は私たちに会うとあれこれ尋ね、その場で「この事業はずいぶん問題がありますねえ」と言ったのだ。取り調べするような質問の仕方も不愉快だったが、その上、私たちの事業は誤りだという。青年のための教育プログラムには問題があるし、事業の持続性も見えないという話だった。やれやれ…私は心のなかで溜息をついた。言ってやりたいことが頭の中に五万個くらい浮かんだ。「そりゃそうだ、現場には問題がたくさんあるだろう。不十分なところもあるはずだ。だが、いったい私たちの事業をどれほど知ってて、そんなに簡単に言い切るんだ? 本部での厳しい審査を通過して事業に選定されたんだぞ。聞けばこの職員はラオスに来てまだそれほど長くないはずなのに、どうしてこんなに訳知り顔なんだ? こっちはラオスに出入りするようになって10年以上、ラオスのODA事業の評価もやったし、今はラオス暮らしだ…。その私の話をロクに聞こうともせず、即座に、この事業は問題がある、だと? 専門家だからそうなのか?KOICAはそんなに専門性が高いのか?

以前ならこの人と一戦交えていただろうが、今回はケンカせずきちんと見送った。今やケンカする気力も残ってないほど老けたのか、あるいはケンカしなくてすむほど自分の心が広くなったのかはわからない。KOICA職員のあの無礼さはどこからくるのだろうか? ああいう人間を現場に送りこむKOICAはどういうつもりなんだろうか? ホームページのURLがgo.krとなっていたり、職員が官用パスポートを持って出入国しているところをみると、そんなはずないのだが…。 いわゆる上?から来た人が現場を尊重しないことは多い。評価し、指摘し、急かす。力を持っている人が専門家なのだろうか?金をくれる人が専門家なのだろうか?頭のが混乱した。

現場をぶちこわす人々

韓国の夏と冬は全世界の現場が忙しくなる時期だ。学校が休みになり、学生たちが海外奉仕団という名のもと現場に送り込まれてくるからである。学校、団体、機関、企業、政府は、大学生や高校生がいないと事業ができないくらい彼らへの依存度が高い。何かを目に見える形で行おうとすれば多くの人員が必要になるわけで、学生ほどよいソースはないのである。ところが、多くの場合、期間、人員、プログラム、予算などを決定する際には、現場の事情を汲むよりも送り出す側の立場が優先される。

学校から送り込まれる場合はまだましだ。広報物の制作で新聞社や放送局がやって来ると、それこそ死にそうになる。有名な芸能人でも引き連れて来ようものなら完全に彼らがご主人様だ。彼らの望む絵柄になるようにしなければならない。それが本当の話かには関心がないのだ。私は個人で活動している人間なのでそういう目に遭うことはないが、現場の活動家たちによると、こっちの方がおかしくなりそうな事態だという。募金のためには仕方がないとするしかないのだろうか? こんな風にして現場を壊すのであれば、多くの募金を集めることにどんな意味があるだろうか? 今のような募金の仕方は問題だとする声は、韓国でも徐々に強まりつつある。

寄付してくれる人と現場を橋渡しをするのは重要なことだ。偉い人が現場に来ると儀式が面倒くさいから嫌なのではない。韓国からやって来る人のために現場で何かを「動員」し、見栄えよく「包装」し、誰かに「面倒」をかけると、それ以降、現場での活動が難しくなるのである。「本当に私はきちんと仕事をしたいんです。ゆっくり、誠心誠意仕事をしたいと思います」。そう言い続けてきたのに、ある日突然すべてが崩壊する。何かをきちんとやりたいと思っていても偉い人がやって来て、一言って帰っていけばそれで終わりだ。現場にいる何人かのパートナーが言う。「そりゃそうだろ。おまえも仕方ないやつだな」。

現場の声

現場にいる人に、現場の言い分を聞いてみた。
「どうか、本部に一人でも現場のことをわかってくれる人がいるといいんですが。」という切実な声が上がった。別の人はこう言う。「『カンボジアはこうなのに、ラオスはどうしてそうなの?』たのむから、そんな話ばかりしないでほしいんですよ」。

冷静なトーンで話す人もいる。
「常に結論は本部が下す。それはわかる。だが、それを現場にどう説明し、どう相談するかによって違ってくるんだ。」

怒り心頭の声もある。
「ときどき現場の活動家の『善意』を利用する?傾向もある。私たちは現場で直接人と接するから、『NO』とは言えない。だから死んでもやるしかない。それをよく知っていて、こっそり宿題を押しつけていく人もいる。」

少し違う次元の話もある。
「団体は現場の人間のことを期間限定の活動家や職員だと見なす傾向がある。どうせ行きずりの人間だから組織への忠誠心はないだろう、と思っている。だから真摯な議論を交わそうとしない。」

「企業が海外市場を開拓する場合、長いあいだ準備し、十分な調査を経て、少しずつ試験的に事業を始めていく。そして、その分野の最高の専門家を送りこむ。ところが私たちの団体はどうだろう?大雑把でいいから早く早く、だ。安い人材である初心者を送り込んでくる。だから韓国の開発団体は一部の人から三流と言われる。」

「ひょっとしたら、愛や奉仕、犠牲といったものが専門性の邪魔してるんじゃないか?知識や経験が大切なのに、そういうものを積む機会は与えられない。ひたすら善意の心だけで仕事をしろ、と言われる。」

プディンデン青少年センター職員と支援活動家

現場は事例ではなく人生だ

現場に来たらいい事例だけを追い求めるのではなく、いい事例を生み出している人々のことも眺められるようでなければならない。そうでなかったら、机に向かって文字で知るのとどう違うだろう。人々の話に耳を傾け、人々の生活をイメージしなければいけない。変化は誰が作るのか? どうやって作られるのか? 現場の声を聞くにはどんな勇気が必要か?何が怖くて聞けないのか?
 
専門性について話していたら、多少重い文章になってしまった。現場は人と出会う場所なので、次号では少し、人々の暮らしについて話してみたい。この話の最後に、「韓国」のオクチョンで現場を守るクムビッチョウルのクォン・ダンさんの文章を読者のみなさんにも読んでいただこう。

時間がかかっても 踏み固めていかなければならないのだよ
成果に惑わされず 数字に振り回されることなく
肌触りを心で受け止められなければならないのだよ
すぐできるものは すぐに消え去るものだから
風がひとしきり吹いた後で、波がやってくるだろう
君に 僕に 伝える言葉

(クォン・ダン 2014.1.18. / https://www.facebook.com/iminho75?fref=ts)

文: イ・ソンジェ/ODAウォッチ運営委員、プディンデン村民

翻訳: コリチーム(小山内園子)

原文(韓国語): 라오 이야기 5- 현장을 위한 변명

http://www.odawatch.net/?mid=articlesth&category=27158&document_srl=39334

ラオスの話 (1) : 地元を守る若者たち
ラオスの話 (2) : だれが地域を守るのか? 世間の‘水’をちょっと飲んでみた若者たち
ラオスの話 (3) : ラオスを訪れる韓国人たち
ラオスの話 (4) : 韓国の青年達の感受性を育てる