1月 272015
 

ラオスの話(9) 開発か、発展か?

ワークショップに集まったラオスの人々に尋ねた。

「韓国の全羅南道という地域に、50人ほどが住む小さな村があるんですが、そこの住民で一番若い男性は何歳くらいだと思いますか?」
「さあ、何歳くらいかなあ? わからないなあ。」
「おい、なんてつまらない質問なんだい? 新しく生まれた赤ん坊が一番若いに決まってるだろ?」
「ちがうんです。村で一番若い男性は60歳過ぎなんですよ。」
「本当に? 信じられない!」

プディンデン青少年センターが2011年12月、韓国、ラオス両国のユネスコと協力し、「気候変動と教育(RICE)」という難しいテーマでワークショップを開いた。気候変化も難しければ、教育はもっと難しい。ワンウィアン村の指導者、教師、公務員、青年たちを招き、気候変動が環境や生態、エネルギーに及ぼす影響について学んだ。ワンウィアン地域は最近、観光地へと急速に変貌しつつあり、やたらな開発によって環境問題が起き始めている。そんなわけで、地域の人々が集まってそうした問題をどう解決するか、額を寄せ合って話し合った。たまたま私も挨拶をする機会があった。いや、私が話したいことがあって少し時間をとってほしいと頼んだのだ。私が韓国語で話し、ヨングがそれをラオス語で流暢に通訳した。上記のような突拍子もない質問に、村民たちは信じられないという表情を浮かべ、驚きを隠さなかった。

どんな開発を望みますか?

「パッターナ〔phatthana〕」、ラオス語で「開発」という意味のこの言葉を、ラオスの人々はしょっちゅう口にする。どこへいっても人々から、ラオスが一日も早く開発されなければならないという話を聞かされる。「ミスター・リーも私たちを手伝ってくださいね!」。もちろんラオスには開発が必要だ。だが、「どのように」開発すべきなのだろうか。

ラオスの人々は開発への関心と期待が高い反面、開発によって生じる問題についてはあまり知らない。開発には両面性があり、開発済みの社会である韓国で既に多くの問題が発生しているのだと話しても、理解してもらえない。いや、聞きたくないのかもしれない。ある日、村のあるおじさんが私に話しかけてきた。「ミスター・リー、韓国の地下鉄は本当に格好よくていいねえ~」。私はひどく驚いて尋ねた「おや、どうしてご存知なんですか?」「うん、うちの息子が持ってきた韓国ドラマのDVDに地下鉄が出ていたんだよ」。彼らが接する韓国は、華やかでいい暮らしをしている、開発に成功した韓国のイメージのみだ。

だから私は、ラオスの人々によく韓国の農村の話をする。「韓国の田舎にはもう若い人がいなくて、ほとんど老人ばかりが暮らしてるんですよ。私が知っている村では一番若い人が、60歳を超えてます。韓国だけじゃなく日本もそうだし、お隣のタイも少しずつそうなっていますよ」。そんな話をしているうちに次第に耳を傾けてくれるようになり、「この村もそうなるかもしれません」と言うと、不安げに表情を曇らせる。プディンデン村の暗い未来がしばし頭をよぎるのだろう。ラオスであれ韓国であれ、田舎に暮らす人は先祖代々暮らしてきた村が消えることを最も恐れる。

開発とはなんだろう? どうして人々は開発一辺倒になるのだろう? 開発されることはいいことだろうか? 先月のラオスの話で紹介したように、ラオスでは早いスピードで開発が進んでいる。どうしたらラオスの人々が開発の行く末を知ることができるだろうか? 私は誰とこういう話をしたらいいのだろうか? 敏感なテーマについては限定的にしか議論できないラオスなだけに、いっそうもどかしさが募る。

開発か、発展か?

「開発か、発展か?」は、ODA Watchが毎年開催している集中ワークショップで、私が数年使い続けている講義タイトルだ。どんな話をしたか? 講義を聞いた受講生の感想を引用しよう。

Q.今回の集中ワークショップの10回の講義のなかで、最も印象深かった講義は?

ウンセム:私は、イ・ソンジェ先生の「開発か、発展か」の講義が今回のワークショップのターニングポイントだったと思っている。講義前に予めレジュメに目を通したが、内容ではなく質問ばかりが一枚にびっしり書かれていた。「開発と発展は違うか? どうして開発しなければならないのか? どこでしなければいけないか? 誰がするのか? どう、するのか?開発の結果は何で、韓国は開発された所か? 国際開発と開発は違うか?」。いったい、どれほど奇抜な答えを伝えたくて、そんなに難しい質問ばかり用意したのだろうと一人悩んでいた。ところがいざ講義を聞いてみると、イ・ソンジェ先生は最初から私たちに答えを教えるつもりなどなかったそう。むしろ、質問の方をより深く考えさせられた。

まずは、開発と発展の違いを説明してくれた。「発展」は自動詞、「開発」は他動詞である点を指摘して、開発は他人が計画的に介入し、発展を促進することだと話された。つづいてラオスの開発のありようと韓国の竜山(ヨンサン)再開発のそれを見せながら、開発は遥か遠くの国でだけ起きるのではなく、私たちのすぐそばでも起こっていることを改めて気づかせてくれた。私たちは韓国型ODAモデルだとか言って、韓国の発展経験を成功事例のように思ってきたわけだ。だが、韓国が発展過程で失くした共同体的価値こそ、地域社会に必要なことだったのではないかという問いを投げかけられた。正直、質問攻めで頭は混乱するし、無条件に正しいと思いこんでいた国際開発協力の歪んだ面も直視しなければならず、複雑な気持ちだった。
―― OWL(ODA Watch Letter) 74号(2013.2.5.) 百人の一歩で見つける私たちの発展代案

私はこの講義にかなり没頭した。講義を通じて、開発と発展について考えを深めることができた。講義の数か月前から新たに資料を探し、人々と議論し、もしかしたら自分がまだ見逃していることがあるのではないかと常に目を見開き、耳をそばだてていた。講義で壇上に立つと胸が高鳴った。どうやってこの人々と考えを分かち合えるだろうか? 二時間のあいだ、私と受講生の間には張りつめた緊張感が漂っていた。講義がおわると受講生たちからの反論や若い質問、私の話への共感などが続き、そのことがまた私の考えを深めた。またあの講義をやりたい。熱く語り合いたい。

「開発」を再び考える

「開発」とは何を意味するだろうか?「開発」というと何が思い浮かぶだろう? 「発展」とはどんな意味だろうか? 開発と発展はそれぞれ違うもののようだが、どう違うだろうか? 英語ではどちらもdevelopmentと書くが、韓国語に置き換えると感じが変わってくる。政治開発と政治発展、どちらがより自然なものに感じるだろう? 政治発展の方が少し自然な感じがする。経済開発と経済発展の場合はどうだろうか? 社会開発と社会発展は? 文化発展と文化開発? 二つの違いを理解するために、韓国の大学生とのワークショップで出た話を少し紹介しよう。「開発業者はいるが、発展業者はいない。/開発援助はあるが、発展援助はない。/発展には進歩の雰囲気があるが、開発にはない。」

こう考えてみると、開発と発展が違うことがわかる。「発展」は自動詞で内在性、内発性、自律性があるが、「開発」は他律で外からのものだ。私たちが国際開発協力というときの「開発」と「発展」が意味するものには距離があることがわかる。だから「国際開発協力」というときに、相手の国家や住民の自発性を期待するような使い方は正しくない。開発は「他の人が意図的、計画的に介入し、発展を促進する行為」だという(佐藤寛 「開発援助の社会学」)。結局、開発は他律 ~自身の意思と関係なく決められた原則や規律によって生じること~ が前提となる。

韓国とラオスの開発はどう違うだろうか? 一方ではセメントが敷かれ、他方はセメントを剥がして土を踏めるようにする。一方はドブを覆おうとし、他方はそれを剥き出しにして小川の水を再生しようとする。既に開発済みとされた韓国の竜山では、「再」開発をしようとして人が亡くなった。そう、韓国もまだ開発中なのだ。ラオスの開発と韓国の開発は本質的に違わない。開発、再開発、撤去、移住はいつも我々の周りにある。開発と成長は皆の目標であり神話だ。結局、開発は私たちの問題であり、人間の本質の問題なのだ。

ラオスの開発は?

ラオスは「とても」貧しいとされる最貧国だ。最貧国はどうやって決まるだろう? 国際社会は1日1.25ドル以下の所得で生活することを絶対貧困と呼び(かつては1ドルだったのに、どうして増えたのだろう? )、一日も早く開発しなければならないと主張する。それに従い、ラオスでも政府や各種委員会が開発事業を行っている。私が住むワンウィアンは観光産業を中心に開発が進められている。観光客のためにホテルやゲストハウスを建て、そのために川で骨材を採取し、山の木を切り倒す。そうして開発を進めると住民の生活は良くなるだろうか? 自律的な生活を可能にしていた農地がリゾートに変わると、農夫はそのリゾートに就職する。楽に暮らせるだろうか? 農業をしているときは貧しくとも誰の顔色も窺わず、気兼ねなく暮らしていたものが、今やリゾートにがんじがらめの暮らしだ。他人に従属した生き方だ。生活を維持する根本が変わるのだ。

「食べるものにも事欠き、汚れ、殆どすり切れた服のことを考えると、(ラオスのことは)思い出したくないですよね。ここ(アメリカ)はすごい国です。楽に暮らせるし、食べるものもたくさんありますよ。でも(私たちは)言葉を話せないじゃないですか。他人に頼って生きなければならないし、福祉制度がなければ飢え死にするしかないでしょう。ラオスが恋しいのは、心安らかで自由だからですね。やりたいようにやれて、自分の土地もあって、自分の米もあって。自分の野菜も、果物もある。そんな自由が恋しい。正真正銘自分のものがあった、ということが恋しいんですよね。(エン・ペディモン・ジョー「リアの国」p.178)

ラオスの戦争が終わり、1980年代にアメリカに非自発的移住をしたラオス人の話だ。ラオス内部でこうした声をきくことは難しいので、アメリカ在住の移民の話を例にしたが、ラオス内でも大差ないだろう。開発による移住が増え、どこかで住民たちの声が大きくなっていく。「貧しくても、自分で自分のことを決めるのが人生なのだ」。

もう少し1.25ドルの話を続けよう。ラオス政府は、全国民が1日1.25ドル以上で暮らせるよう、高速鉄道を敷き、ゴムの木のプランテーションを際限なく広げ、メコン川にダムを建設し、鉱山を開発している。本当にそうなるだろうか? 開発が進むと、農業をしたり魚を獲っていた住民は自分の土地と川を失い、移住する。住民は、少しの間、開発産業と関わって金を稼ぐが、すぐにその稼ぎ口はなくなる。すると、仕方なく都市に出る。そこに金があるからだ。だが都市の生活困窮者になるのがオチだ。最悪の場合には、物乞いをすることになるかもしれない。村の共同体に暮らしていた時は、助け合いによって飢えることはなかったが、都市は金がなければ飢え死にしかねないのである。

開発が物乞いを、餓死者を生む? そう、そんな例はいくらでもある。1.25ドル以上のいい暮らしができるよう開発したのに、再び1.25ドル未満に舞い戻る。この悪循環を生み出しているのが開発なのだ。どうして1.25ドル必要なのだろう? 地域で自給自足している人は1ドルの必要もない。なぜ統計基準を変更してまで絶対貧困というレッテルを貼り付けるのだろう?

のんびり屋の漁師の話

ラオスの人たちは、自発的な貧しさと共生的な貧しさを知っている。無知だから、発展していないからではなく、あまりに多くを得ようとするから問題が生じるということを知っている。ヨングが言うには「ラオス人の最大の長所は『ポレオ』です」。「ぴったりだ」「それだけあれば十分」という意味だ。自分の意志で、少ない取り分での暮らしを選ぶ人々を私たちの開発が都市へ、貧民街へと追いやっているのではないだろうか? かなり前、1992年の話だ。インドの代表団がUN会議に出発前、次のように宣言した。“本当の開発とは、どう開発するかではなく、どう開発しないか、なのです(The real challenge of development is not how to get there, but how not to.)”

国際開発協力の業界で有名な話がある。のんびり屋の漁師の話だ。ある日、一人の紳士が海辺に出かけた。漁師がひとり海辺に横たわり、のんびり過ごしているのを見た紳士は、漁師に尋ねた。

「おまえさん、ここで何をしてるんだい? 他の皆は一生懸命働いているのに?」「ご覧の通りのんびりした午後を楽しんでるんじゃありませんか。」「今日は天気がいいから魚もたくさん獲れるだろうに、どうして魚を捕らずに、こうしてだらだら遊んでばかりいるんだ?」「魚をたくさん獲ってどうするんです?」「魚をたくさん獲れば小さな船でも買えるじゃないか。その船でもっとたくさんの魚を獲って儲けたら、さらに大きい船を買って工場だって建てられるってもんだ。」「工場を建ててどうするんです?」「そうしたら金持ちになるから、余裕たっぷりで休むこともできるじゃないか?」「私は今、ちょうどそんなふうに休んでるとこなんですよ。」

漁師はほどほどに魚をとり、三食の不安なく、ゆとりのある暮らしを楽しんでいる。なのに紳士はなぜ、もっと一生懸命働いて、もっとたくさん稼がなければならない、と思うのだろう? どれだけ稼がなければいけないのか? 何のために働くのか? ひょっとするとラオスの人々が「漁師」で、開発済みの韓国人は「紳士」のように振る舞っていないだろうか?

開発されたラオスの未来は?

「じゃあ開発はするなっていうこと?」こう反論する人がいる。開発し、発展もしなければならない。基本の衣食住を解決し、保健所も建て、橋も架けなければならない。だが、開発や発展とは何なのか、どこへ向かわなければいけないのかは問わなければいけない。どれだけ早く向かうかではなく、どこへ向かうのかを問わなければいけない。開発の果てに何が待っているのかをラオス人自らが問い、答える機会がなければいけない。

ラオスも開発されれば韓国と同じようになるのだろうか? 村の青年が姿を消すのだろうか?“お金持ちになってください”と叫ぶのだろうか?ラオスは韓国の長所だけを見、韓国はラオスの短所だけに目を向ける傾向がある。どちらも問題だ。韓国で生じている開発のプラス面とマイナス面をともにラオスに示さなければいけない。ラオスの長所にも目を向け、より長所を伸ばせるように手を差し出すことも必要だ。

貧しく、開発されていなくても “システムではなく人で動く国”“垂直ではなく水平に暮らす国”、ラオス! 瞬く間に開発されながら、“数百名の子どもたちが溺れ死ぬ国”、韓国! ラオスにはシステムというものが存在しない、とこぼす“お粗末システムの国”、韓国! 開発経験を他国に伝えようという韓国社会に、私は尋ねよう。 「今の韓国が、みなさんが進めようとする開発の姿ですか?」「村が姿を消すような開発が、みなさんの目標ですか?」

昨年秋、プディンデンに来たソウル市ボランティアセンターの研修生たちが、将来のラオスがどうなっていてほしいかを考えた。
・過去の姿と今の姿がそのまま尊重される国
・相手を気遣い、自然を愛する、ゆとりある美しい国
・海外観光客から自分たちのものを守りぬく国
・自然を守り、ほほえみと人が美しい国
・アイデンティティと自己発展がともに備えた国
・長い未来を持つ国
・子供たちに選択の機会が与えられる国
・地域が甦り、ほほえみを失わない、発展した国
・夜空の星がどこでも眺められ、子供たちが土を踏みしめ、かけっこして遊べる国
・共同体、選択の多様性、透明性が守られる国
ところで、この彼らのイメージを読んでみると、ラオスではなくて韓国の未来に対する期待のようにみえる。韓国がこうであってほしい、ということではないだろうか。

ラオスの人々が考える幸せは?

開発、あるいは発展が目標とするのは、人生の質を高め、人を幸せにすることだ。だが幸せが何かは社会によって人によって違う。ラオスの自律的な発展を手伝う現地団体・PADETCがラオスの人々に尋ねた。“あなたにとっての幸せとは?”その答えを映像化した。タイトルは“幸せなラオス”  (happy laos – https://www.youtube.com/watch?v=DWQ113aTyDg).

人々は、勉強、仕事、環境、家族、友人、自由、趣味などを幸せの要因に挙げた。素朴なラオスの人々にとっての幸せとは、“家族との日常/食事、薬、衣類、寝る場所があること/スポーツをし、友達と遊ぶこと/私がしたいことをし、なりたいものになれる自由/遊んだあと家に帰り、両親を手伝い、両親の喜ぶ顔を見ること/妻と子どもが自分を敬い、家族のつながりとぬくもりがあること/自分が自分の持っているものに満足すること/旅行すること/国家のために仕事をし、家族の面倒を見ること/自分で仕事をしてわずかでも金を稼ぐこと/したいことをできるチャンスを持つこと/家族の健康/学校で勉強する機会を得られること/本を読み、絵を描くこと/音楽を聞き、映画を見ること/学生たちに知識を伝えること/朝、寺に行き、帰宅してからは娘の糸車回しを手伝うこと/両親は戦争から逃れて大変だったけど、今は戦争もなく平和なこと/家族と一緒に食事をすること/自分の技術で機織りすること/人を幸せにすること/人が私を愛し、尊重し、友人になってくれること/食堂を経営してお金を稼ぎ、子どもたちを学校にあげること/お手伝いをするとお母さんが喜ぶこと/友達と一緒にいること、自然の中にいること”だ。

ラオスは早いスピードで変化し、人々はその変化を受け入れている。だが、変化への期待と不安が同居している。変化の方向が正しいかどうか、少し立ち止まって考えなければならない。経済発展だけでなく、社会、環境、経済、精神がバランスよくともに発展する道はないのだろうか。ラオスの人々は、お金が多いことが幸せなのではない、幸せとは心がけによるものだと言う。人と競って勝つことは“儚い”幸せ、すぐに消えてしまう幸せだという。韓国の人はいつ、幸せを感じるだろうか? 「何があなたを幸せにしてくれますか?」。

低開発状態で暮らす人々

開発された韓国で、「低」開発の暮らしをしている人々がいる。 今日は、全羅南道コクソンのナミャン(南陽)で、電気もなく、生活の根本を守りながら暮らすキム・ジェヒョンさんを紹介しよう。(https://www.facebook.com/botarinim).キム・ジェヒョンさんが校長先生をしているソネ学校(선애학교 https://www.facebook.com/groups/seonae)の話もみてほしい。(https://www.facebook.com/groups/seonae) ラオスの話7で紹介したキム・ジェリョンさんと今回紹介するキム・ジェヒョンさんは、名前も顔つきも似ている。生き方もそっくりだ。二人の師が出会えるよう私が間を取り持ったのだが、会えたかどうかはわからない。お二人とも自発的に貧しい暮らしをされているので、交通費が捻出できず会えていないかもしれない。誰かお二人をいっぺんに招き、開発と発展についてのお話をしてもらったら、面識ができるだろうに。

私はラオスが、ヒマラヤ山中の小国“ブータン”のようになればよいと思っているが、問題だらけの韓国のようになるのではないかと胸を痛めている。私が片思いしているラオスが壊されていくのはつらい。心の友が住む韓国は、少しずつ沈みつつある。どうしたらいいのだろう?

文: イ・ソンジェ (ODAウォッチ運営委員/プディンデン村民)

原文:라오 이야기 9. 개발인가 발전인가?

http://www.odawatch.net/?mid=articlesth&category=27158&document_srl=463362

翻訳:コリチーム(小山内園子)

*【訳注1】“お金持ちになってください(부자 되세요)”=2002年に話題となった韓国のクレジットカード会社のCMコピー。雪原にたたずむ女性が、視聴者に向かって「お金持ちになってくださ~い」と叫ぶもの。一躍流行語となり、IMF通貨危機後に「金持ちになろう」ブームを引き起こした。

ラオスの話 (1) : 地元を守る若者たち
ラオスの話 (2) : だれが地域を守るのか? 世間の‘水’をちょっと飲んでみた若者たち
ラオスの話 (3) : ラオスを訪れる韓国人たち
ラオスの話 (4) : 韓国の青年達の感受性を育てる
ラオスの話 (5) : 現場の言い分
ラオスの話 (6) : システムではなく人が生きている
ラオスの話 (7) : 垂直の人生から水平の人生へ
ラオスの話 (8) : ラオスは何処へ行くべきか?