2月 262015
 

ラオスの話(10) ミスター・リーではなく アイ・タムディとして生きる

ラオスの話を連載中、これまでずっとラオス自慢をして来たので「先生、完全にラオ‘パ’ですね。」と誰かに言われた。インターネットで調べてみると、‘パ’とは、‘特定の対象を文句なしに誉めたりまたはひいきする人をバカにして言うことば’とあった。そう、ラオス自慢が過ぎたようだ。

ラオスへの片想い

2001年9月30日、日曜日の朝、わたしは初めてラオスに足を踏み入れた。首都ビエンチャンで会ったラオのスカート、‘シン’をはいた女性たち、道を通れば手招きして‘ビオラオ’をくれた男性たち、朗らかに笑いながら自転車に乗って通っていく若者たち、その姿を胸に秘めて、10年余りひたすらラオスに出入りしてきた。2年前には会社を辞めてここに来た。ある日、青少年センターの職員たちに尋ねてみた。「なぜミスター・リーはラオスに住みたがるのか?」職員たちは答えた。「ラオスは気候がいいからです。」「美しい国じゃないですか。」「サバイー サバイー ゆっくり、のんびり暮らしているからですよ。」「長年の経験をラオスの若者たちに教えてやるためですよ。」

みなそのとおりだ。昨年ちょっと韓国に帰ったとき、親しい友だちといわゆる‘占いジョ(女)’に会った。神通力があるという彼女とあれこれ話したが、「どうしてラオスに行ったんですか?」とわたしに尋ねた。わたしは「そうですねえ。よく分かりません。」占いジョはわたしがなぜラオスに行ったのか知ろうとしてあれこれ尋ねたりわたしの様子を探ったりした。そしてわたしの手首に結んであるひもを見て、「それは何ですか?」「村の人たちが幸運と健康を願って結んでくれたんですよ。」「ああ、ラオスがあなたを呼んだんですね。」「え!ラオスがぼくを呼んだって?」「手首のひもは人びとがあなたを‘結ぶ’という意味があるのよ。」この解釈があっているなら、わたしひとりがラオスを片想いしているわけじゃないんじゃないか?

成功していた本部長?

職場を辞める直前、アフリカに青年を派遣する‘アフリカ希望ブリッジ’事業を始めた。韓国の若者が地域の村に入って、2年間住民たちと暮らしながら住民たちがみずから変化するように手伝う仕事だ。いまわたしがプディンデンでしているのと同じ仕事だ。アフリカに18人の若者を派遣したが、退職するとき、ブリッジ事業団はわたしを19番目の活動家に任命した。そういうわけでブリッジの名誉活動家としてラオスに来た。

ユネスコ韓国委員会を、なぜ辞めたのか?当時(2011年)韓国は本部長ばやりだった。いろいろなドラマに本部長が登場し、社会で成功している人の典型だった。わたしも本部長だった。自分勝手な思いだが、仕事もよくできたし人気もあった。よく「うまく行っているあいだに辞めろ」と言うものだ。だから辞めた᠁ フッフッ。定年でもなくクビになったのでもなかった。

本部長として楽しく働き、若者たちとずっと会っていたが、わたしにできることはなかった。政府、財団、企業など外部から金を得て、事業もたくさんしたが、名前がもっともらしいだけで役に立たないものが多かった。内容よりも顔が幅を利かす世の中だった。わたしはあるとき組織の文化を変えようと労組の委員長もした。組織を人間中心に変えようとしたが、効率と経済が先立つ世の中の大きな流れにはかなわなかった。

実はわたしはある日突然ラオスにやってきたのではない。地域に入るために長い間準備した。学生時代は学校がとても嫌いだったのに、大人になってからたくさんの学校に通った。帰農学校、生態建築学校(【訳注】伝統家屋の復元や伝統的な暮らしを見直す学校)、伝統文化学校、大木課程(【訳注】大規模な伝統家屋を建てる実習)で勉強した。韓国で帰農したいと思っていたが、方向を変えて‘地球村帰農’をすることにした。そのころ韓国農村経済研究院にいる後輩、チョン・スンウン氏がわたしをインタビューして地球村帰農の話を書いた。その文の一部を紹介しよう。

「かれは全羅南道谷城(コクソン)郡の杜渓(トゥケ)村では‘イ先生’と呼ばれ、ラオス、パンビエンのプディンデン村では‘ミスター・リー’と呼ばれている。簡単にかれを紹介するなら、長い間ソウルのど真ん中、明洞(ミョンドン)のユネスコビルで若者たちとともに働き楽しく暮らして来た人物だ。何よりも‘人間’の匂いがする場所で働くことを喜び、そんな場所を求めてきた。10年あまり、ラオスと全南谷城の杜渓村を行き来して‘人間’が‘自然’とともにある暮らしをしてきた。

かれがこれまでユネスコとアーバン(AVAN)、そしてODAウォッチを通じてして来たことは開発協力という名で呼ばれる。しかしかれを開発協力をする人間だと規定するのはふさわしくない。かれは単純に農村での暮らしを求めているのであり、それにくわえて助けが必要な農村に暮らしの場を定めるという、新しい形の帰農だと見ることができる。あえて開発協力という面倒な外皮をかぶせなくてもよい。すでにかれは帰農という暮らしの中で自然と共生する態度、村に入り込むための努力を絶え間なく続け、自然と村人たちとともに発展していっている。かれのこのような生き方は開発協力プログラムを作って事業をするのではなく、かれの生き方、生き方の方式なのだ。」

それで何しているの?

プディンデンに来て2年が過ぎた。いまは‘ここ’に住んでいる。昨年光州(クァンジュ)国際交流センターで働いているキム・ジヒョン氏がプディンデンに来て何週間か過ごしたいと言った。わたしと、わたしの活動をモニタリングするという条件で来いと言った。毎日わたしの後をちょろちょろついて回ったキム・ジヒョン氏の記録を通じて、わたしはどんな人間か、何をしているのかをこっそり覗き見しよう。タムディというのは、わたしのラオス名前だ。

質問する人:「ケビン大の学生、ポンスン村の若者たち、ナモンニアの若者たちに会ったタムディは質問を投げ続ける。「きみはどう思う?」「何が必要か?」「青少年センターではどうすればいいか?」質問することによって若者たちがみずから考える力を自然に育てているのではないかと思う。タムディと一緒に毎週一回ずつ会議をしているプディンデン青少年センターの職員たちは恵まれている。以前タムディが光州に来たとき、テイン市場の‘テイン’とはどんな意味かと尋ねて、そこにいた人びとは答えが分からずうろたえたという話を何度も聞いた。(【訳注】‘テイン’は漢字では大仁と書く。韓国では現在日常的にはほとんど漢字を使わないので、人びとはその名前の意味を知らなかった。そのようにタムディは、何でも質問する人だということ。)」

誉める人:「育った環境が異なるラオスの青年と韓国の青年たち、かれらには長所短所があるだろうが、タムディは韓国の青年たちに対してより厳しい物差しを持っているのではないだろうか?それは逆に言えば期待と歯がゆさだろうか?アイ・ヨングは、アイ・タムディは青年たちの長所を発見してそれを誉め、励まし、信じるという大きな長所を持っている方だと言っている。ラオスの青年たちを見つめるタムディの姿に、そのことばが思い出された。」

人を結ぶネットワーカー:「タムディの役割は何か?ラオスと韓国、また世界で多様な人びとに会っているアイ・タムディ。忠南大学とケビン大学と村の青年たちを会わせ、日本の作家たちをラオスの友人たちに会わせ、光州チームとパタン保健所を結び、全南大学の学生たちを村の青年たちに会わせる。かれ自身が言うようにタムディはブローカーだ。もう少しよい表現をするならネットワーカーだ。そのようにつなぎ、結び合わせることで、ラオスと韓国の若者たちを目覚めさせる役割を果たしている。互いの文化に触れさせ関心を持たせている。ラオスの若者たちはタムディと一緒に自然に韓国文化や多様な文化に接し、学んでいるのだろう。」

人間をはぐくむ人:「タムディの新しい役割は何か?ラオスのタムディとは何者か?新しいタムディはどのようにあらわれるか?新しいタムディをラオスではぐくむことがタムディの役割だろうか。でなければ、自分が働いている姿、人びとと会っている姿を見せることで、こんな生き方もあるという‘モデル’になるのが、かれの役割だろうか?知りたくなる。第二のネットワーカーはいまどこで働いているのか?」

あなたは何者ですか?

ミスター・リー、タンリ、アチャンリ、フアナ、ルンリ、イ・ソンジェ氏、ファラン、コンカオルリ、タムディ。わたしを呼ぶ名前や呼称だ。わたしは何者か?

人びとがいちばんよく呼ぶのは、‘ミスター・リー’だ。初めてラオスに来たときから今まで、公式的にも、非公式にもこう呼ばれる。村のちびっ子たちもかわいい声で‘ミスター・リー、ミスター・リー’と知ったかぶりをする。わたしをラオス風に呼ぶとタンリ(Tan Lee)となる。タンは英語のミスターにあたるのでミスター・リーと同じだ。タンは目上の人や地位が高い人を指す場合もあるので、公式的な場で人を呼ぶときに使う。わたしに対してタン・リーというのは、わたしがラオスに一歩近づいたことを意味する。

アチャン(Ajan)は‘先生’、つまりわたしから何かを学んだと思う人たちの呼び方だ。しばらく講義をしたケビン大学の学生たちと1年間訓練ワークショップをしているグッドネーバーズのラオス職員たちがそう呼んでいる。フアナ(Huana)は‘代表’、わたしを青少年センターの代表だと誤解したり、韓国から来た学生たちと一緒にいるとき、わたしが偉い人だと思って、このように呼ぶ。あまり好きでない呼び名だ。わたしは代表でもなく偉い人でもないから。

ルンリ(Lung Lee)は、‘リーおじさん’、いくつかの村の子どもたちがそう呼ぶ。青少年センター職員のカムスンはセンターに韓国人が来ると、わたしを‘イ・ソンジェ氏’と紹介する。それだけわたしをよく知っていて親しいというわけだ。

わたしはファラン(Farang)だ。ファランはラオスでフランス人を指すことばだ。いまはすべての外国人をファランと呼んでいる。外国人が通りかかるとラオスの人びとは‘ファラン、ファラン’とささやく。つまりわたしをファランと呼ぶ人たちはわたしのことを知らない人たちだ。コンカオルリ(Khon Kaoli)は‘韓国人’。わたしは韓国人であることを意識してはいないが、わたしが韓国人であることを知っている人たちは、ほかの人にわたしを紹介するとき‘コンカオルリ’と言う。わたしは韓国のパスポートを持っているが、それは外交上そうであるだけで、ただの‘人間’あるいは‘イ・ソンジェ’だ。

わたしのラオス名前は‘タムディ(Thamdee)’だ。‘アイ・タムディ’とも言うが、‘アイ’は兄さんを指す言葉だ。タムディの意味は、‘よいことをする、よいことをする人’だ。隣村のヴィアンサマイの校長先生がつけてくれた。ラオスでよいことをたくさんしろと。そうできているかな?

片想いの涙

今日ポンスン村で小さな宴会があった。この村で5ヶ月間活動した韓国の活動家たちの送別会だった。住民たちが集まって楽しく酒を飲み、幸せを祈る挨拶も交わした。人びとはわたしにもご苦労だった、ありがとうと挨拶をする。ところでありがとうという言葉の前に‘助けてくれて’がついていた。「助けてくれてありがとう」。ふだんは気にならなかったが、今日に限って変な気分だ。その挨拶が気に入らない。

なぜこんなに淋しい気持ちになるのか、考えてみた。わたしは村人、‘住民’になりたかったのだ。よそものが来て助けてくれるのではなく、同じ村人と思ってくれることを願っていた。わたしは同じ家族として、同じ住民として働きたかった。けれどもわたしは相変わらず‘よそもの’だ。当然なことだが、淋しい気持ちになった。人びとがくれる酒を拒まずに飲み、結局大いに酔って家に帰ってきた。バカみたいに涙が流れた。

わたしは欲張りか?わたしはラオスのプディンデンに住んでいる。それではラオスの住民か?そうではない。相変わらずわたしは外国人だ。わたしは村のお客ではなく、住民でありたい。住民にもなれなくて、お客はイヤだって?それでは何か?なぜ住民になりたいのか?お客と住民との違いは何か?なぜ住民になれないのか?ここの生まれではないから、わたしの仕事ではないから、ただの外国人だから…?

韓国にも異邦人は多い。韓国に長い間住み、韓国人と結婚して家族がある人もいる。けれどもいまだに‘よそもの’だ。韓国に受け入れてもらえない。いまこそかれらの気持ちを少し理解できる。かれらもわたしのように住民になりたいのではないだろうか?ときどき陰で涙を拭いているのではないだろうか?わたしも、かれらも片想いをしているようだ。前に明洞で働いていたとき、ときどき行っていた‘ボタラ’食堂のミンスさん(本名、Tenzing Lama)が追放の危機にある。わたしよりずっとつらい片想いの涙を流しているだろう。京郷新聞が報道している。
( 参考リンク:http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?code=940202&artid=201406222100345)

名前ではなく志を残そう

プディンデンで仕事を始めてもう10年が過ぎた。けれどもわたしの名前はどこにも記されていない。学校を建てたり水のタンクを設置したりするとき、住民たちは尋ねる。「どこにミスター・リーの名前を書きましょうか?」「絶対わたしの名前を書いちゃダメだ!」人びとは困ったような表情を浮かべる。どこかにわたしの名前を書きたいが、わたしがあまり頑強にダメだと言い張るので、そうできないのだ。

ある日の夕方、ヨングと酒を飲んでいて面白い話をした。大部分の機関、団体、個人がラオスで事業をすると、自分の名前を残していく。わたしは自分の名前を残さない。ヨングがわたしにある提案をした。「そうじゃなくて、今度水のタンクを設置したらタンクの底にひげ男と書こうよ。そうすれば名前は見えないけど、意味はあるじゃない?」「それはいい考えだ。名前は目に付かないが、わたしの気持ちのこもった水が村人の間に流れていくからね。」今度水のタンクを設置するときそうしたいと思うようになった。

わたしは韓国で仕事をするときも会う人の故郷、学校、年齢を尋ねなかった。わたしが尋ねられるのも嫌いだ。いま、ここでもそうだ。ラオスの人も外国の人もわたしにどこから来たかと尋ねる。私の答えは「月から来ました(I am from the moon.)。」韓国人であることがなぜ重要か?ただよい志を持って働けばいい。ここにどんな志を残すことができるか?どうやって気持ちを残すか?

日常を暮らす

プディンデンに来る韓国の客たちは「何が要りますか?何を買って行きましょうか?」とわたしに尋ねる。「特別必要なものはないです。だけど買って来たければ、顔のパックを買って来てください。」「ほんとですか?」ひげ面の男がパックを買って来てと言うので、たいていの人は不思議がる。わたしは昼食を食べてから、パックを貼って昼寝をする。パックすると顔が涼しくて真昼の暑さが消え去る。顔がきれいになるのは、オマケだ。何を買っていくか悩む韓国の客にとっても、安くて簡単に手に入る贈り物だ。

暮らし方を変えている。自分のための時間をもっと作ろうと、自分のためにもっと動いている。細かいことをいろいろしている。洗濯、部屋の掃除、食器洗いもし、前の山も眺めている。身だしなみも熱心にしている。シャンプーを使わず再生石鹸で頭を洗う。洗剤なしで水で洗濯する。手洗いの専門家になったが、寝具を洗うときは踏み洗いもする。床に腹ばいになって雑巾がけをしていたが、あまりに辛いのでモップを買った。いまは座り込まずに床を磨いている。わたしが下宿しているヨング農場には、エアコンも洗濯機もない。それでも台所に冷蔵庫があってビールを冷やせるので幸せだ。暑い国でエアコンなしで暮らしているが、何の問題もない。とても暑いときは木陰を探したり水をまけば済む。

朝起きるために目覚ましをかけたりしない。ただ目が覚めた時間に起きる。普通9時に寝て明け方の5時に起きる。8時間寝るわけだ。特別な場合以外は、必要なだけ眠る。人びとはよく睡眠不足だと言うが、自分の体が必要とするだけ眠れなくてもしなければならないこととは何か?気楽なもんだねって?見せびらかすなって?見せびらかすためではなく、一緒にそんな気楽さを作り出そうと言うのだ。 

しょっちゅう自転車に乗っている。健康によい。何よりもラオスの人びとの目に平凡にうつるからよい。土の道を車が通れば埃が立つ。歩いたり自転車に乗ったりしている人びとには不都合だ。自転車なら埃が立たないし、わたしも人びとの仲間でいられるからよい。108拝(【訳注】韓国式の跪拝を煩悩の数の分、108回すること)をしようと努力している。心と体の健康のために。心を無にするために。他郷に住んでいるのだから健康でいることが重要だ。わたしには生命保険、がん保険、さらには旅行保険もない。ラオスの人も同じだ。

プディンデンの田舎者になる

わたしはちゃんと食べてちゃんと暮らしている。都会の高価で脂っこい食べ物ではなく、田舎の健康な食品を食べ、よい空気を吸っている。おのずから進んで貧しい。いまは金を稼ぐことも使うこともない。それでも完全に金なしでは暮らせないから、ほんの少し稼いで最小限使う。わたしは自分に‘必要なもの’と自分が‘欲しいもの’を区別している。いまは欲しいものは消え去った。必要なものも「これは本当に必要か?」と10回ぐらいは自分に問いただしてみる。それでも必要だと思えるときは、それを買う。洗面器もモップもそうやって何度も問い返してから買った。安物暮らしになった。どこかに旅行するときは安い宿を探す。職場にいたとき泊まっていたきらびやかなホテルは、いまやわたしの人生にはない。荷物も軽い。絶対に必要なものだけ持って行く。

わたしにはお金になる所属先がない。少し前ラオスにある民間団体の韓国人職員がわたしに尋ねた。「ここに住んで働いていますが、韓国に後援者がいるんですか?」「いいえ、だれか後援してくれる人がいるわけではありません。」「じゃあ、どこかに所属しているんですか?」「ええ、所属してはいますが、お金をもらうどころか、払っていますよ。」わたしが所属先にしているアーバンはネットワークだから組織ではない。必要なことは自分の金で支援活動をしている。アーバン・ネットワークにいる友人たちはみんなそうしている。もうひとつの所属団体は、ODAウォッチだ。実行委員という職責を持っているが、金をもらうどころか、毎月会費を納めている。ラオスの話を10回書いたが、原稿料は一文ももらっていない。いま金がなくて残念なのは、ODAウォッチ以外にはこれまで後援してきたことをみんなやめたことだ。

働き方、生き方を変えようとしている。何にも縛られず従属していない。市場(market)からの脱出が重要だ。生涯を貧しい人びととともにして、先ごろ亡くなられた天主教イエズス会のチョン・イルム神父様は「貧しいのは不便だが、その小さな不便がわたしたちを人間にしてくれる」と言われた。わたしはまだまだだ。貧しく生きる、貧しい人を助けることを、少し真似しているが、貧しい人とともに生きるにはまだ出発点にも立てないでいる。

アイ・タムディとして生きること

 雨がたくさん降る。
 朝早くナモンヌア村に行く。
 若者たちが大声で「アイ・タムディ~アイ・タムディ~」と呼ぶ。
 
 ポンスン村に行く。
 いつもどおり若者たちと昼食を取りながら一杯やる。
 この友人たちはアイ・タムディが言うことなら、小豆で麹を作ると言っても信じるほどだ。(【訳注】疑うことを知らない。)

 ラオス人を無視しない人
 助けてくれる人ではなく、友だちのような人
 子どもたちとふざける人
 冗談をよく言う人
 世の中の話をしてくれる人
 かっこいいトヨタ自動車ではなく自転車に乗ったりテクテク歩いたりして、来る人
 どこにでもどっかり座って話にくわわる人
 ラオス語を勉強しようと努力する人
 ラオハイやラオキャップ(ラオスの伝統酒)を愛する人
 辛いと顔をしかめながら唐辛子入りの食べ物をよく食べる人
 ちょうどいい時にビールをおごってくれる人
 話をよく聞く人
 心のために働く人
 若者と会う人
 夢を抱かせる人
 質問する人
 分け隔てをしない人
 そんなアイ・タムディとして生きよう。

広場に、市場に行こう

毎日世の中が気にかかる。いまわたしに必要なのは世の中を眺める目だ。世の中について考え続けている。その考えを推し進めている。ほかの人とその考えを分かち合おうとしている。いまは片田舎にいるので、人に直接会うことができず、文を書いて伝えるしかない。わたしは文が上手ではない。職場に長くいたので、文を書くと何かの報告書のようになる。ずっと口先で生きてきたので、文を書こうとすると死にものぐるいだ。背もたれもなく座布団もない小さな木の椅子に座って2年間がんばってきた。文を上手に書く方法を読んでみると、たいていよい文は‘尻’で書くそうだ。

「こうしていると仙人になるんじゃないか?」とある人が言った。そんなはずはない。わたしは人間が好きで人間の中に世の中を見ている。いまだに毎日誰かを恋しがり誰かを憎んでいる。わたしが書いているラオスの話をどれぐらいの人が読んでいるか、誰が好んでくれているか?と気にかかる俗物だ。

ラオスで韓国を考える。果てしない奈落に落ちていく韓国を眺めると、胸が痛む。このままだといつかは韓国は滅びると予想される。それがいつになるかは分からないが、いまから準備しなければと思う。ところがこんなに早くやってくるとは。それも花のような子どもたちが死ぬ形でやってきた。これはダメだ。これは絶対ダメだ。
 
さて10回のラオスの話を終える。先月、終わりにしなくてはならなかったが、文も考えも止まってしまって一歩も進めなかった。どうして途中で止まってしまったのか?何がわたしの歩みを止めたのか?世の中のいろいろな考えが押し寄せてきて、ビクともできなくなった。セウォル号の子どもたちもこうだっただろうか?わたしのように怖かっただろうか?なぜ‘じっと’していたのか?

文を書きながらずっと亡くなられたカン・デグン先生のことが心から離れなかった。若者はいるが、若者に関するディスクール(言説、論議)はないという先生の叱責を心に刻んで来た。
(参考リンク:http://m.khan.co.kr/view.html?artid=200904230928065&code=900315)

いまや先生の言葉にこだわらなくなった。
フウー つらい。

考えはどこに行くか?
里程標もなく、
果てしない道に旅立とう。

人びとでごったがえす広場に、市場に行こう。
若者に会いに行こう。
生きる‘力’を求めに行こう。

文: イ・ソンジェ (ODAウォッチ運営委員/プディンデン村民)

原文:라오 이야기 10. 미스터리가 아니라 아이 탐디로 살기

http://www.odawatch.net/?mid=articlesth&category=27158&document_srl=464094

翻訳:コリチーム(波多野淑子)

ラオスの話 (1) : 地元を守る若者たち
ラオスの話 (2) : だれが地域を守るのか? 世間の‘水’をちょっと飲んでみた若者たち
ラオスの話 (3) : ラオスを訪れる韓国人たち
ラオスの話 (4) : 韓国の青年達の感受性を育てる
ラオスの話 (5) : 現場の言い分
ラオスの話 (6) : システムではなく人が生きている
ラオスの話 (7) : 垂直の人生から水平の人生へ
ラオスの話 (8) : ラオスは何処へ行くべきか?
ラオスの話 (9) : 開発か、発展か?