3月 312015
 

4月がまた残酷な月にならないようにするには…
[週間プレシアンビュー] 記憶の場:権力による‘歴史’を拒否する道

解釈と定義がもたらす罪

もうじきセウォル号の惨事から1年です。いくつかの事が私を不安にします。政府、与党が吐き出す言葉、知識の仮面をかぶった解釈と定義が私たちをどれだけ虚しくするか、今から心配です。我慢して長い目でみればの話ですが、事はそれほど単純ではありません。権力者たちは、口先だけで危険社会に対して警鐘を鳴らすでしょう。また、国家災害システムの改善にも言及するでしょう。場合によっては、無能な政府の反省文を出すかもしれません。しかし、そのような解釈行為、定義づけをすることこそ、現実をごまかしたり、もみ消したりする知識権力者たちの定番メニューなのです。遺族たちの壮絶な痛みは、権力者たちの解釈と定義づけの後に隠され、歴史の前面から消えるのが常です。その痛みは生活の中で大きくなるばかりで、解決の糸口はますます遠のいていくにもかかわらず。

一般化することの過ちがその根源にあります。惨事の背後にある、数多くの罪は、具体的に実在します。それによって受けた被害と痛みも凄絶な実存です。私たちは、昨年4月16日以降、今この瞬間まで、そのような実存と向かい合ってきました。涙を流し、街に出て、大統領府の前でプラカードを掲げならも。そのようにしてこの世に実際に存在することを一般化してしまうことで、課題と教訓だけがぽつんと残る状況を迎えるのです。構造の問題だの、精神の問題だの言いつつ、災害システムを改善し、国民が命を尊重する精神を高めなければならないと叫ぶと同時に、罪と痛みの実存は消えてしまいます。

一般化が権力によって行われるとき、その深刻さは増していきます。権力は浅薄な資本主義、コミュニケーションを図らない政府の無責任さ、夢を捨てさせる盲目的な競争教育のような根本的な問題は、巧みに隠されてしまうからです。正しい一般化をしても、遺族たちが直面している暗い現実が埋もれてしまう局面では、根本を避けて悪を隠蔽する一般化をするなら、なおさら大変なことに違いありません。 遺族たちは、お金もうけで子供に多くの愛を与えられなかったと泣き叫びながら、金銭万能主義に染まっていた自分を責めます。しかし、与野党に関係なく、政界は再び経済だけが生きる道だと叫んでいます。大統領と会話しようと清雲洞で野宿していた遺族たちに応えない政府は、今でも扉を固く閉ざしています。夢を育てる真の教育に対する要求にもかかわらず、安山に残った子供たちは、再び塾を転々としなければなりません。すでに、知識権力による一般化の暴力は動き出しています。 私たちは、権力の一方的な解釈と定義がもたらす数多くの罪と無気力な素顔で対面しています。

416を記念するということ

アガンベンの“ホモ・サケル”*が思い出されます。 セウォル号惨事の遺族たちも、竜山惨事の被害者たちも、密陽のおばあちゃんたちも、世の中に抱かれずに放置されてしまった存在だと言えるでしょう。 知識権力の解釈と定義は、私たちの社会に多くの“ホモ・サケル”を量産しています。私たちは、権力と絶えず闘争しながら生きて行かなければならない理由がここにあります。私たちも、“ホモ・サケル”になる可能性がある恐れの中で生きないようにするためは、セウォル号惨事の遺族たちの痛みを後回しにしてはいけないのです。 私たちのかすかな罪の意識が、痛みの存在を忘れないようにする力の源です。 ファン·ソギョン**の言葉通り、寒さに震えながら死んでいく、その一人のために、私たちは罪の意識から心をかき乱しているのに、セウォル号遺族の痛みを置き去りにしたまま、どうして未来を論じることができるというのでしょう?

416を記念することは、記憶することから出発します。ただ記憶するのではなく、痛みを一緒に感じ、体でしっかり抱きかかえて、彼らを‘接触不能’の存在にしないことから始めます。裸の体に服を着せてあげ、食事を分け与えて、かすかな希望であっても一緒に分け合ってはじめて4月16日を記念する余白が生じるのです。4月を前にして、私たちは安山、仁川で行動しなければなりません。真の記念のためにです。日常のパターンをいくつか変えない限り、行動することはできません。私たち自身も知らないうちに徹底的にしつけを受け、タイトに組んだスケジュールの中で生きていく限り、遺族の痛みを記憶し、行動に移し、共にすることは望めません。4月が再び残酷な月にならないようにするために、私たちは日常の変化を試みなければなりません。

少しの変化ではなく、人生をまるごと変えてしまった人たちが、416記憶貯蔵所にいます。 “お母さんの黄色いハンカチ”のオ・へラン代表がそうですし、キム・ジョンチョン記憶貯蔵所事務局長がそうです。遺族たちの痛みに最後まで一緒にするために、それまでしていたことを全て捨てた人たちです。安山には、このような方々がたくさんいます。 癒しの空間「隣人」を運営しているイ·ミョンス、ジョン・へシン夫妻がそうですし、社会福祉ネットワークのパク·ソンヒョン福祉士がそうです。遺族たちを一軒一軒訪問し、記録を収集している演劇人イム・ギヒョン氏、芸術学専攻のイ·ヘリ氏もやはり日常の変化を実践する人々です。記録学を専攻して416の記録に人生を捧げようと飛び込んだ記憶貯蔵所のクォン・ヨンチャンチーム長とオ・ユンテクさんも同じケースです。私は、毎週火曜日に安山に行って部分的ながらも彼らと一緒に活動しているだけです。国レベルで見ると成果が低いかもしれませんが、このような生き方こそが痛みを共有する余白を少しずつ作っていく努力なのです。 記憶貯蔵所は、4月16日の前後に大々的に才能の分かち合いを組織しようとしています。空き時間を割くのではなく、積極的に日常を変化させて共にする文化が求められています。

4月16日に何を記念するのかとオ・へラン代表に尋ねたところ、「人が中心となる日でなければなりませんね」と簡単に答えます。ある遺族のお母さんに尋ねると、「子どもたちが存分に遊んで夢を育てていく世の中になったらいいですね」と言います。 痛みの実存の中から出てくる響きが大きな声になったのです。彼らの解釈と定義は、権力のそれとあまりにも違います。国家安全処を急いでつくって真相調査委員会を妨害する権力の態度とは始まりも結果も全て異なります。痛みに目を閉ざして根本を回避する権力とは異なり、心の痛みの中で湧き出てくる根本的解釈と定義なのです。裸の人間ではないことを自ら明らかにする宣言でもあります。

毎年4月16日は「人と夢」を考える日であることを願います。5月18日と6月10日は民主主義について考え、8月15日は抑圧からの解放を考え、10月9日に民の悟りを考える日であるように、です。もちろん、これらの記念の解釈と定義は、一般化することの誤りを克服することを前提とします。いたるところに存在している大小の悪に対抗して、痛みの実存を一緒に慰める日常を前提にしなければなりません。また、知識権力の解釈と定義に対抗して、忘却の画策を無力化する闘争を共にしなければなりません。1ヶ月後に私たちが迎える4月16日は、そのような日でなければなりません。

権力による歴史叙述を拒否する道

1周年を迎え、あらゆる白書が飛び交うかもしれません。とんでもない「歴史」が叙述される可能性もあります。権力が書き下ろした「歴史」こそ「知識」の暴力なのです。彼らは、「客観的」資料をもとに「専門的歴史家」が書いた「歴史」で現場に存在する罪と悲しみの実存を上書きしてしまうことを躊躇しません。いや隠蔽してごまかしたりすることに「歴史」を利用するでしょう。近代以来、権力は「歴史」を利用して従順な国民を作っていきました。このような「巨人の歴史」に対抗して「小人の歴史」を試みようとする努力がなかったわけではありません。しかし、部分的に権力によるしつけの効率を下げる一助となるレベルでした。基本的に「歴史」は、生きている現場の声を表現するのが難しいだけでなく、変更を許さないと‘固定体’として私たちをしつける性質を持っています。

セウォル号惨事1周忌を迎え、私たちの仕事は、このような死んだ歴史を作ることではありません。罪と悲しみの実存を、あるがままに一つ一つ呼び出して疎通し、これを基に下からの未来を創り出していくことでしょう。416記憶貯蔵所がそのような仕事をしています。記憶貯蔵所は、‘固定体’としての「歴史」を拒否して鮮やかな記憶を呼び戻し、痛みの主体が自ら解釈して、未来を生成していく場としての役割を果たすでしょう。「歴史」が‘固定体’としてコミュニケーションと参加を封じ込める権力の手段であるならば、記憶貯蔵所は‘流動体’であり、人が中心となって疎通し参加する生成の場です。 その意味で、416記憶貯蔵所は、権力による歴史記述を拒否する新しい試みです。記憶の場が「歴史」を代替する実験の空間でもあるのです。

416記憶貯蔵所2号館が安山のコジャンドン(古棧洞)にまた作られています。1号館がオフィス、整理作業場、会合の場所であり、2号館は、コアの記録を保存し、展示する場所です。新しい建築士協議会のユン·スンヒョン建築家ら、5つの建設会社が費用をすべて持ってボランティアとして参加しています。2号館の天井には、犠牲者たちを記憶の箱304個が展示される予定です。陶器で製作した記憶の箱に、犠牲者の日記、写真、人形などを保存し、上部に空の星を象徴する小さなLED照明をつけます。記憶の箱が展示されている下のスペースには、展示館が設けられます。キュレーターのキム·テヒョンさんの企画で「子供の空き部屋」というテーマのオープニング展示が1周忌の2週間前にあたる4月2日を目標に準備されています。空に向かった夢の主体たちが星になって、土の空き部屋を明らく照らしてくれる姿を表現しようとしています。痛みの実存は、星になった犠牲者たちの導きで、新しい夢の未来に進んでいかなければなりません。「歴史」に束縛されてとどまっている主体ではなく、記憶を呼び戻して痛みをしっかりと抱きかかえたまま、新たな価値を形成していく生きた主体が、この空間に集まるのです。

“416の記憶巡礼”

記憶貯蔵所のキム・ジョンチョン局長の提案で“416記憶巡礼”を4月から開始します。416記憶貯蔵所2号館の展示を出発点として、檀園高校の教室、記憶貯蔵所の書庫を経て、遺族との出会いにつながる巡礼道を国民皆と一緒に歩みたいと思います。「歴史」の解釈と定義に閉じ込められるのではなく、記録を通じて記憶を呼び戻し、裸の者たちと痛みを共にすることになるでしょう。檀園高校の教室こそ痛みの実存そのものです。子供のロッカー、黒板に書かれた友人の文字と絵、部屋の中を埋め尽くした黄色のポストイット、空っぽの机の上に残された菊の花が、心の中の深いところで鳴り響く根元の声を聴かせてくれることでしょう。記憶貯蔵所の書庫に積もりに積もっている子供の夢の記録、数えきれないほど存在している罪との壮絶戦いの記録が、私たちの弱さを悟らせてくれることでしょう。遺族と抱きあって流す涙と励ましは彼らを治癒し、私たち皆を癒すことでしょう。

知識権力の解釈と定義を拒否しなければなりません。しつけされた私たちの日常を小さく、あるいは大きく変化させて行動しなければなりません。運動であれ、ボランティアであれ、416記憶巡礼であれ、行動して、私たちの新しい生成を試みなければなりません。権力による「歴史」叙述を拒否して、私たち自身の記憶を呼び戻し、痛みを抱えて未来を創り出さなければなりません。2015年4月16日をそのように迎えてはじめて、私たちは権力装置の動きから自由な存在になることができるのです。

文:キム・イッカン/明知大学記録情報科学専門大学院教授

原文(韓国語):http://www.pressian.com/news/article.html?no=124461

*  【訳注1】イタリアの哲学者、ジョルジョ・アガンベンが提唱した概念であるホモ・サケル(直訳は聖なる人間)とは、主権権力の外に位置する者のこと。
** 【訳注2】ファン・ソギョン(黄晳暎)現代韓国で最も人気の高い作家の一人。「与党側はセウォル号事件を交通事故だと言い張っている。だが、事故と事件は別の問題だ。交通事故が起きれば1次的には事故だが、ひき逃げは事件だ。セウォル号事件で救えたはずの子供たちを24時間傍観して救助しなかった」などと発言。