5月 282015
 

【週間プレシアンビュー】「死にそうなのに・・・セウォル号のお母さんはタバコを吸ってはいけませんか?」

胸のあたりが詰まって

少し早い夕方でしたが、心が苦しくて一杯飲んでいました。言いたくない話をしてしまいます。なぜ私たちは、今も痛みについて話さなければならないのでしょう。1、2杯のアルコールが入ると、苦痛がうごめき、生々しい話が行き来します。私は、口にしてはいけない話を何とかやめようとしています。しかし、家族の胸の中から噴き出る絶叫は、私の理性を簡単に無力化させてしまいます。最近めっきり疲れて、心が痛みます。私がそうなのだから、家族はなおさらでしょう。

一人のお母さんにチャーハンを勧めます。アグチムの残りの調味料で作った海苔の香りがするご飯を勧めましたが、一口食べては首を横に振ってしまいます。

「胸のあたりが詰まって食べることができません。」

船からあがった子供の体が思い浮かんで、何も喉に通りません。糞くらえの国は、子供の死亡推定日時さえ教えてくれません。1年が過ぎ、子供の死を追悼しようとしても、一体いつ子供が逝ったのか、1年になるのが何時なのかを知ることができません。 4月16日以降、子供が海から上がってきたその日までの毎日が家族にとっては弔いの日です。

彼らは、一日でも目一杯なのに毎日を忌日として送っています。夢によく出てくる子供を思いながら、狂人のようにぼうっとして空を見たり地面を見たりします。目頭が赤くなったり、笑ったり、涙が流れたり、悪口を言ったり、再びぼんやり座り込んでタバコを吸います。

残酷な「お年寄り」

セウォル号惨事被害者の家族は、お酒も飲んでもいけないし、タバコを吸ってもいけない、という。子供を前面に出して親が出回り、お酒ばかり飲んでいると人の見る目が冷ややかです。家族は常にそうした世の中を意識して生きていきます。胸の中が詰まって、溢れる直前の怒りをどうすることもできずにもがきながらも、です。

あまりにも残酷すぎませんか。家族の心を少しでも察してみようともせず、つまらない自分たちの「道徳律」を突きつけることが。目元が赤いまま座り込んでタバコを一本くわえたお母さんを「お年寄り」の一人が呆れた顔で見ます。幸いなことに言葉で口出しはしませんでしたが、周りをうろうろしながら視線を送ります。

「お年寄り」ですが、本当に酷いです。ある人たちは、むやみにこう言います。より多くのお金をもらおうとあんな騒ぎを起こして、近所ではお酒を飲んで、タバコまで吸って、と。それがまさに私たちです。それが秘かな暴力なのかさえわからない、本当に悪い私たちなのです。

禁煙が当然の今の世相からすると、時代にそぐわない話かもしれません。しかし、もう一度考えてみなければなりません。女性がタバコを吸ってはいけないという「道徳律」は一体誰が何の権限で作ったのでしょうか。そんな馬鹿げた些細な権力の暴力が、正常な普通の人を締め付け、逆に根本的な罪に蓋をしてきたのではないでしょうか。男だけに許されたタバコ文化こそ、私たちの社会の保守性を象徴しているのです。

これは、禁煙主義の「正当性」とは全く別の問題です。保守的な「お年寄り」にとって女性とは、単につつましくご飯の支度をして、男性のもつ特権を支え、助けるために存在しなければならないようです。痛みを少しでも忘れようと喫煙するお母さんのタバコ一本に対しても、そのように根本から歪曲された尺度を何の罪悪感もなしに突きつけているのです。

近所の「お年寄り」でさえも、このような考え方であるのに、きれい好きでタバコを吸わず、毎日のようにホテルのフィットネスクラブで汗を流す金持ちの偉そうな人の見る目はどんなにか酷いだろうか。彼らの偉そうな暴力的視線では、家族たちは貧しく、無知で無秩序な「低劣な存在」にしか見えないでしょう。

ここに私たちの社会の病の根源があります。金持ちで偉そうな人たちの、見た目のきれいさの裏には、ソン・ワンジョンの黒い金と、イ·ワングの偽りの涙のような腐った低劣さがあります。油ぎったイ·ワングが流す「涙」を哀れに思いながら、家族のお母さんの震える指で握られたタバコ一本を冷ややかに見つめるその視線こそが、愚かで低劣で、残酷だといえるのではないしょうか。

しつけされた私たちの体の中に流れる保守的な血が、この社会を締め付け、価値をひっくり返し、正常な人を“低劣に”仕立て上げる暴力の源泉であり、巧妙で隠密な罪の根源なのです。

ユミンのお父さん、キム・ヨンオさんの怒り

同僚の教授が書いた文章に、ユミンのお父さん、キム・ヨンオさんの話が出てきます。離婚したユミンのお父さんを非難する我々の社会の「軽さ」を痛烈に批判しています。この社会は、一体なぜユミンのお父さんの子供への愛に共感しないのでしょうか。離婚して、さらに切ないお父さんの心、多くを与えることができずに心に積もった悔恨の数々、そして光化門を離れられない彼の愛をどうして理解できないのでしょうか。

離婚は罪であり、離婚した父は子供を捨てた罪人であり、キム・ヨンオさんの戦いは偽りであるという“道徳律”は偽善の塊です。ユミンの妹のユナがお父さんの胸に抱かれ、愛を伝えます。お父さんは、申し訳ない、申し訳ないと、ただ手をぎゅっと握るだけで言葉がありません。そんな彼に向かって子供を捨てたと石を投げる社会、それこそが罪深い社会です。

妻を愛せなくなって離婚をしたお父さんは罪人ではなく、ただ不幸な経験をした人であるだけです。愛が冷めてついには妻を憎むようにまでなってしまっては、つらくても離婚をするしかありません。不幸な決定をしたお父さんは、ひょっとして子供が心に傷を受けやしないかと気をもんで、慎重に愛情を伝えたのでしょう。

しばし考えてみても、ユミンのお父さんのそんな思いがそっくりそのまま感じられます。 愛していない妻を道具として利用し、言葉の暴力とあらゆる束縛を日常的に行う離婚していない夫は、逆に、この社会では罪人ではありません。ただ離婚を否定する「道徳律」だけにしがみついて、あらゆる種類の偽善的、暴力的な罪に目を閉じる社会なのです。

学校では、離婚した家の子供を「欠損学生」として扱うといいます。ユナは、離婚した父親を愛して心配しながら、彼の胸に顔を埋めるのです。「普通の家庭」のみ「正常」だとする歪曲された「道徳律」の尺度は、その基準を子供たちにまで突きつけて無言の暴力を行使する学校、そのような偽善の塊さえ存在しなければ、子供たちは自然と成長していきます。離婚が子供を病気にするのではなく、まさに偽善的で道徳的でない微細な暴力で子供が病んでしまうのです。

「親バカ」のキム・ヨンオ氏と、「子バカ」のユナの凛々しく感動的な愛こそが、あるがままの真実でしょう。しかし、今でもキム・ヨンオ氏は偽善の塊である社会の暴力が原因で、怒りの日々に耐えています。夕食の席で「親バカ」キム・ヨンオ氏はどうやって闘争を続けるかについて叫び、また叫びます。 この社会の鬱陶しい暗さが、彼をこれ以上「闘士」にさせないよう、両手を合わせて祈りました。それ以外に私にできることは何もありません。

ムルソーの不条理

世の中は一周忌を迎えた家族に残酷にも毎日のように刃を突き刺します。「詐欺施行令」で刺し、賠償・補償攻撃で刺し・・・車のバリケードで刺し、放水銃と催涙液でまた刺します。短刀で刺された彼らに、私達は再び無関心の刃を刺し込みます。その隙に、選挙で刺し、裁判で刺し、とどまるところを知りません。

正気を取り戻すことができないほど刃で刺され、彼らは夕食の席で言葉を吐き出します。 言葉であっても言葉ではない言葉・・・その中にしっかり詰め込められた悔しさと絶望と、血を吐くほど湧き上がる怒りと、懐かしさと空しさと恐怖が食堂の中を埋め尽くします。 あるお母さんは、闘志を燃やしながらも瞳の奥深いところで助けてほしいという微かな本音でいっぱいです。あるお母さんは、ちょこんと触れるだけでも、しきりにけらけらと笑うが、かれてしまった声には耐えられない悲しみがにじみ出ています。

あるお母さんは、今日は夕飯の支度をせずに酔ってやると豪語するが、赤ら顔の表情の中に、生きている者の申し訳なさや心配事がいっぱいです。また、あるお母さんは、遺族だけに会っていると子供の死が思い起されるからと、他の場所でバイトを始めると言うが、言葉尻から一人になってしまう恐怖と孤独がまざまざと感じられます。不条理、そして説明できない混沌の暗雲が私たち皆を襲います。

全くつじつまの合わない連想だが、なぜかアルベール·カミュの「異邦人」が思い浮かびます。全く別の傾向の話ではあるのですが、ムルソーが感じた不条理を家族も感じているのではないかと心配になります。ムルソーが、母親の死を目の当たりにしても涙を流さない“奇妙な行動”をしたと死刑を宣告されたように、家族も、闘争した、笑った、離婚した、酒を飲んだ、タバコをくわえた、などと、死刑を宣告されるのではないか、と。

彼らはアラブ人を殺さなかったし、ただ自分の子供が最も不条理な死に方をしただけであるのに。偽善の塊であるこの世の中が、彼らを窮地に追い込むのではないかと思うと恐ろしくなりです。“低劣な”人間が、より多くの金を受けとろうと“低劣な手を使う”と、汚い言葉を発し続ける世の中が怖いです。裏であらゆる罪悪に明け暮れ、表では偽善的“道徳律”の剣の舞を踊るこの社会が、家族の苦痛を崖っぷちまで追い込むこのような状況が恐ろしくてなりません。

ボックス菜園

それでも私たちは、闘争に明け暮れ、虚しい笑みを浮かべたり、笑いをふりまいたり、離婚もして、酒を飲み、タバコまでくわえる家族と一緒に野菜を育てようと、コジャン洞の記憶貯蔵所でボックス菜園を試してみることにしました。未熟で言葉も多く、退屈するような会議も多かったが、最終的には地域役場の協力を得て、誰も使っていない遊び場に家族と一緒に耕す菜園を作ることにしました。

5月10日の日曜日に皆で集まり、土と肥料を混ぜ、丁寧に苗を植えるのです。近所のおばあちゃんが遊び場を汚すと叱るかもしれません。でも、その叱責は、油ぎった権力の秘かな暴力とは次元が違います。偽善的“道徳律”を突きつけ、家族を傷つけることで、自らの卑怯さと不道徳さを努めて隠ぺいしようとする保守主義者とも全く違います。

何を解決できるのかよくわかりません。怖くて自信がなく、混乱するばかりです。ただ痛くて胸のあたりが詰まって、夜明けに起きておいおい泣いてばかりいる家族ですが、それでも彼らと一緒に野菜くらいは育てることができます。野菜が美味しそうに育ったら、近所のおばあちゃんたちと、気の合う彼らを迎えてマッコリを飲み干すその日を想像してみます。

異邦人になる危険にさらされていますが、私たちは異邦人ではありません。ボックス菜園のように小さく取るに足らないものですが、不道徳な権力よりも強いかもしれません。私たちが飲み干すマッコリ一杯は、偽善的な権力者たちの高級ワイン一杯よりも真実であるからです。

文:キム・イッカン/明知大学記録情報科学専門大学院教授

原文(韓国語): http://m.pressian.com/m/m_article.html?no=126099