11月 272015
 

韓国の人気TV番組「無限挑戦」が、8月23日、ウトロに来た。ウトロとは京都府宇治市にある在日朝鮮人集落の地名である。住民の9割が在日韓国・朝鮮人。約55世帯150人が住む。この番組、人気タレントのユ・ジェシクさんとハ・ハさん(日本で言うと、スマップ+明石家さんまに当たる?)が、各地の韓国人を訪ねるというバラエティ番組で、韓国では若い人なら知らない人はいない、それほど有名だそうだ。スタッフは10人。慶尚道と全羅道の郷土料理が山のようにウトロに届けられた。「今日は何があるの」、「ドッキリカメラらしいよ」といいながら、住民らが集まってきた。待つこと1時間。集会所の食卓に座る。この2人はよく通る声の持ち主で、きびきびしている。ハ・ハさんのメガネにはレンズがない。「韓国のTVで、この人見たことある」と住民の一人が言い出した。集まった住民は2世、3世の女性中心だが、通訳の助けを借りて会話、何とかその場が持てた。

うとろかんこくTVこの日の主役は、1世住民の姜景南さん(90)。彼女は日本語と韓国語(慶尚南道方言)のバイリンガル。日本帝国主義の植民地下、1925年に慶尚南道泗川郡(当時)で生まれた。8歳の時、釜山から船で下関に、汽車で大阪に着いた。1945年3月に大阪大空襲に遭遇し、兄を頼ってウトロ飯場に移った。そこは日本陸軍の飛行場と航空機製造工場の労働現場であった。彼女は日本の敗戦(植民地からの解放)をここで迎えたのだが、その時のことを「解除」という。つまり(毎日のように続いた米軍機からの)「空襲解除」の意味である。以来、70年間、彼女はずっとウトロで暮らしてきた。今回の2人の訪問は秘密にされたが、その彼女を喜ばせようとあらかじめ企画されたもの。彼女の故郷の風景を写真アルバムにして持ってきてくれた。彼女はこの2人に顔をくっつけて、その喜びを表している。その姿が9月5日、韓国で放映されると、韓国全土で爆発的に受け入れられた。検索ワード1位。MBCの視聴率23%。スゴイ。

ウトロとは京都府宇治市伊勢田町ウトロ51番地のこと。そのルーツは戦時中の京都飛行場建設のために動員された朝鮮人労働者の仮住居、つまり朝鮮人飯場跡である。1943年ごろの飯場建物が、いまも1棟だけ残っている。1945年8月(解放の日)、ここには300人以上の朝鮮人労働者がいた。出身地は韓国の慶尚道が多く、もとは農民である。彼女の人生の大半はここでの生活である。子どもを産み育て、肉体仕事で働き、孫ができ、働けなくなりという具合だ。いまは、手押し車(乳母車)を押してウトロ地域の中を散歩するのが日課。彼女はウトロの隅々まで知っている。誰かと会えば声をかける。彼女を知らない人はいない。時々文句が出るのは、黙って家の中に入って座っている、という声だが、苦情までにはならない。「仕方がないなー」でおしまい。さして広くもないウトロ地域全体が、彼女の庭である。「いつ死んでも悔いはない」という彼女だが、いまの願いは、ウトロをこのままにしといて欲しいということ。

11月9日、ウトロ地区に入る取り付け進入路の拡幅工事が始まった。6ケ年に及ぶ大規模工事の始まりである。日本の行政(国土交通省、京都府、宇治市)が行う「ウトロ地区住環境整備事業」の実施計画は、周辺一帯の環境改善を含めて、総事業費は約31億円。事業の実施主体である宇治市は2015年度予算に約2億6千万円を計上した。不良住宅の除却、メインの(代替え)公的住宅の建設、道路・排水路・雨水貯留施設などの整備を行う。この事業が完成すれば、ウトロ住民は同じ地域内で既存のコミュニティを維持したまま、公的住宅に移り住む予定である。この事業は、住民が望んで実現する事業である。なぜなら、これ以外にウトロ問題の解決、住民がウトロで生きていく方法が見つからないから。その説明をしようと思えば、ウトロを守る闘いを振り返らなければならない。ここでは、2つの事実に触れるだけにしよう。1つ目は、土地所有者の日産車体KK(日産自動車の一部分)が1987年に当時380人が住むウトロ地区の全部を転売したこと。2つ目は、土地を買い取った不動産業者(地上げ屋)が、立ち退き裁判に訴え、勝利したこと(住民の完全敗訴、家屋が撤去される判決が確定した)。しかし、その後も住民は団結してここに住み続けた。一方、支援する市民運動は「居住の権利」を守れと、日本政府・韓国・国連などに救済を訴えた。

「ウトロを守る会」は、周辺の日本人や在日韓国・朝鮮人の個人が集まった市民運動である。当初から27年間、活動は途切れることなく続いている。住民は全員敗訴により、一つの運命共同体となった。もし判決が執行されれば、最悪の場合、ホームレスになるかもしれない。この危機的状況を国際人権法に訴えて打開しようと、私は国連・社会権規約委員会にNGOレポートを書いた。その結果、2001年に日本政府に対し救済勧告が出された。これをバネに、国際的な運動を続け、韓国の民衆の支援や、韓国政府の30億ウオンの支援金があり、最後に日本政府がやっと動いた(動かした)。しかし、闘いの日々はあまりにも長かった。当初、40人はいた1世住民のほとんどが亡くなった。いま、彼女は最後の1世の一人である。彼女にとってウトロはふるさと。見知った人、見知った風景が貴重なのだ。なので、ウトロの環境が徐々に変わっていけば一番いいのだが、事業ではそうはならない。おそらく3~4年後、彼女の老朽化した家屋も解体される。貧困生活の中で、苦労を重ねて建て、家族と生きてきた自分の家がである。

韓国からのウトロ訪問客が増えている。TV番組の影響だが、関西空港から直で、ゴロゴロ荷物を引きずりながら見に来る若い人がいる。中学・高校の修学旅行も来る。夏休みの大学生も。半分はアポナシ。彼女はちょっとしたスターになっている。いいような悪いような・・・。支援者のウトロを守る会としては、ともかくこの難破船をどこかの港につけないことには安心できない。運動を辞められない。「強制立ち退き」に反対する運動として一定の成果を得たウトロだが、一方でそれは、歴史的、社会的、あるいは場所的な制約の中で、実現できるものしかできなかったというある種の悔しさを共有したままでもある。

ウトロを守る会は、支援運動をしながら断続的に住民の話を聞いてきた。1世の「身世打鈴」(身の上話)が主だったが、もう直接聞けなくなってしまった。いまは韓国から若い人が来ると、彼女の出番となる。話のレパートリーは数種類かあって、横にいる私は全部覚えてしまった。時間と場所の特定が難しい。混乱したり、飛んだりもする。しかし、彼女の話は何を言っているかではない。存在そのものの価値である。だから、私のフォローも最小限。ウトロが一番貧しかったのは、戦時中ではない。戦後(1945年~)である。軍需工事が中止され、日本人はいつの間にかいなくなり、朝鮮人の労働者(土方人夫といわれた)だけが取り残され、失業と食糧難の極貧生活を強いられた。この悲惨な状態は長く続いた。

住民が生きてこられたのは同胞の助け合い、朝鮮人コミュニティのお陰である。夜遅く帰ってくる人がいると「ごはん食べたか」と、家族でなくても声をかける。日本の敗戦時、ウトロ飯場には300人以上の朝鮮人労働者(「半島人労務者」と差別的に呼ばれた)と家族がいたが、彼らが一番先にしたことは、・・ウトロに学校を作ること(1945年9月)、国語教習所である。国語とは日本語ではない、韓国語(朝鮮語)。釜山に着いたとき「お父さん、お母さん」でなく「アボジ、オモニ」といわせたい。飯場の間仕切りが取られ教室となった。空き地が運動場。その写真が残っている。校舎(飯場跡)は(瓦でなく)藁葺で、子どもたちが元気に学んでいる。運動会もここでした。しかし、1950年に日本政府によりつぶされてしまった。そして、祖国に帰るに帰れない人たちが飯場跡に残り、ウトロ住民は在日となった。ウトロ住民の中には、まだその当時の記憶が残っている。ウトロの人と顔を合わせると、ほっとする気持ちになるという。先祖を大切にする法事(チェサ)をする家族も複数ある。古いしきたりも残っている。こんな朝鮮人集落を頼って、その後も貧しく孤独な同胞が集まって来た。いわば、ウトロの土地は、貧しい在日同胞の生活のすべてを支える社会的共有財産であり、「ウトロの中では何とか生きていける」最後のセーフティネットであった。

ウトロはこのまま順調に進めば数年後、公的住宅の団地に切り替わる。その中で、この土地に染みついた記憶をどのように継承していけるか、住民の課題である。韓国からイベントがやってくる。今月だけでも3回。パンソリ、サムルノリなどだ。みな善意の韓国人で、有名人も無名人も来る。涙が出るほどありがたいことだ。が、家族会議をしたいときに外からお客さんがどんどん来る、まあ、こういう感じにちょっと似ている。いまが曲がり角、住民にとって大切な時期だ。ウトロはふるさと、在日の文化と歴史に根差したまちを残したい。そして、居住と福祉のネットワークなど、新しいまちづくり計画に込められた課題も多い。ここ数年、日曜日に集会所で、ふれあい喫茶「ウトロ・コーヒーハウス。プリンセスX号店」を不定期に、コミュニティの場として行っている。女性中心に、気楽にいつもガヤガヤ。ご近所の底力である。周囲の日本人社会とも平和に、その違いを対等の立場で認め合いながら、共存共生していきたい。そのために、まずは住民が自分たちの居住の能力を高め、主体的に生きていくことが求められている。チャンゴの聞こえるまちづくりまで、あと一歩である。

文:斎藤正樹/ウトロを守る会

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